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 当時、父が持っていた腕時計の文字盤には数字がなく、かわりに、黄道十二宮の12の星座が描かれていた。私の兄からの贈りものであったそのちょっと風変わりな時計が、父にはご自慢の品であった。旅先で時間を尋ねられ、時計をはめた腕を差し出したが、相手は時間がわからず目を白黒させていた・・・と、楽しげに話すのを何度も聞かされている。この年賀状の羊のシルエットは、その腕時計の4時の位置にあった牡羊座の絵がもとになっている。
 時計といえば、私が物心ついた時からずっと、柱時計のねじを巻くのが父の仕事だった。私の耳にはジートク、ジートクと聞こえたが、子供の手の届かない高いところにある時計を操る姿を、頼もしく見上げたものである。
 柱時計も、腕時計も、寿命が尽きて動かなくなり、そして、子供の私や孫たちにとって永遠の命をもっているかのように映っていた父も、昭和60年に83歳で世を去った。「大きなのっぽの古時計、おじいさんの時計・・・」の歌を耳にするたびに、さまざまな姿の父が目に浮かぶ。
 大きな古時計の歌詞の2番は「きれいな花嫁やってきたその日も動いてた」とあるが、私が結婚するのはこの翌年である。

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1967年
(昭和42年、丁未)

  
1968年
(昭和43年、戌申)
 
1970年
(昭和45年、庚戌)

 

 わざわざ清水寺の下の土産物屋で清水焼の猿の小さいのを買ったきたのだが、この年賀状の出来栄えは満足からほど遠い。それでも今となっては捨てずに残しておいてよかったと思う。
 年賀状などは単なるノスタルジアの域を出ないが、ものによっては、長期間にわたって残し続けると、民俗学的に貴重な資料になることもありそうだ。子供が履き古した靴をきれいに洗って保存している人の話を聞いたことがある。スペースを節約するため片足分だけとのことで、勿論、実用的価値はゼロである。しかし、我が子の成長の証しであるとともに、そのコレクションには履き物の歴史の一断面が凝縮されているはずである。そういえば、この時期は多分まだ雨の日には雨靴を履いていた。長靴は今でも作業靴として必要な人には利用されているが、雨靴はいつ消えてしまったのだろう。
 私の家は小さな玩具屋だったが、20年以上ずっと続いていたので、もし扱っていた商品を少しずつ残しておくことができたなら、実に立派なコレクションになったはずである。後に大阪のデパートでおもちゃの歴史展を見たとき、つくづくとそう思った。

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1969年
(昭和44年、己酉)

 左側のアルファベットは何ぞや?と首をひねる人も多いであろう。実はローマ数字である。時計の文字盤でIやXはおなじみだが、Mは1000、Cは100、Lは50を表すので、MCMLXIXは1969ということになる。
 1969年は、私の研究の成果が初めて学術論文として掲載された年である。ホオズキの苦味成分の構造を明らかにすることが私に与えられた研究テーマであった。卒業研究として取り組んだ最初の年は、大量のホオズキを刻んで抽出して、やっと少量の結晶を得たところまでであった。大学院に進学してからも、毎年、夏には山のように積まれたホオズキと格闘した。5年間かけてついに構造決定に成功したが、この苦味の本体は、変形したステロイド骨格をもつ化合物であった。得られた構造が、従来にない新しいタイプのものであったことは幸いだった。
 ホオズキの赤い実は極めて特徴的で、ひと目みればすぐホオズキとわかる。私は長年付き合ったおかげで、実のない葉っぱだけの茎でも見分けがつく。しかし、ホオズキの葉の特徴は何か、どうやって他の草と区別できるのかと問われても、満足な説明は困難である。勿論、ホオズキに見えるからホオズキなんだ!ではまったく答えにならない。
 美術品の真贋を見る目を養う一番の方法は、できるだけ多くの本物に接することだという。私は、実物と贋作を並べて両者の差を記述した解説書などの方がもっと合理的であろうと思っていた。しかし、私のホオズキでの経験を照らし合わせて考えてみると、やはり真作を見ることに勝る方法はないのかもしれない。

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 小学校に6年、中学校と高校にそれぞれ3年、大学には9年間通った。この3月に博士課程を修了して、学生生活に別れを告げ、4月より関西学院大学の理学部に勤務することとなった。京都府と境を接する大阪の枚方市から兵庫県の西宮までの通勤は、京阪電車の支線と本線、大阪の地下鉄に乗り継いで、さらに阪急電車の本線から支線と、電車には往復で何と10回乗った。大学は高台にあって駅から歩けない距離ではなかったが、行きは大抵バスに乗った。片道で約2時間かかったので、起きている時間の4分の1近くを通勤に費やしていた。電車の中では、本を読んだり、詰め碁を考えたりしていた。振り返ると、あの時期が、最も余裕の乏しい日々であったように思う。
 学生時代はホオズキだったが、関学大では蕗が研究対象であった。蕗の成分に紫外線を照射して、分子がどのように変化するかを調べる光化学反応の研究を行うことになった。京大の私の居た研究室では光化学が盛んだったが、私は学生時代にもっと彼らの研究をしっかり見ておくべきであった。関西学院では、アミノ酸やペプチドを扱う研究室が隣にあった。教授どうしが仲がよく、研究室対抗の野球の試合なども行われていたが、私は彼らの研究にはほとんど注意を払わなかった。関学大は2年間だけで、その後、東京の三菱化成生命科学研究所に勤めるが、そこで私はペプチド化学関係のテーマに取り組むことになる。自分自身の研究だけでなく、周囲の研究にも興味を抱き、広く学ぶ姿勢をもつことの重要性を、再び、痛感する次第である。

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1971年
(昭和46年、辛亥)

 あまりよい出来映えではないが、3頭の猪が彫ってあって、前年の10月に長女が誕生して一家3人になったことを示している。赤ちゃんを見ていると一日一日が新しく、昨日出来なかったことが今日は出来たりする。ただのミルク飲み人形みたいだったのが、こちらの呼びかけに反応して、声を出したり、微笑んだりするようになってくる。日々生長する姿を見つつ、ひと月たっても1年たっても大して進歩していない自分を思うと羨ましい限りである。この元日から始まる1ヵ月は彼女の人生の30%に相当し、この1年間は人生の80%以上を占めることになる。それに較べ、当時28歳だった私にとって1年の重みはわずか3%強に過ぎない。日々が変わり映えしないのは致し方ないことではあった。
 これを書いているのは、すでに還暦を過ぎた私である。根気が続かないし、捜し物にかける時間が多くなったり、人の名前が思い出せなくなったり等は毎度のことである。赤ちゃんとは逆に、以前は出来ていたことが出来なくなってくることを嘆く年頃である。
 幸いなことに、新しいことに挑戦すると、年をとっていても進歩する自分を見出すことができる。50歳をとっくに過ぎてから始めたオカリナは、少しずつながら吹ける曲のレパートリィが増えていく。週末ジョギングを10年以上続けているが、ハーフマラソンの記録は60歳くらいまでは、着実に毎年少しずつ短縮していった。年寄りにも「継続は力なり」は正しそうだ。

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