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 3匹のネズミを鏡餅のまわりに配してみた。後ろ向きの小さいのは、1歳になった久美のつもりである。ネズミは多産で子孫繁栄のシンボルとも聞くが、母親のお腹にはこの時、さらに新しい命が宿っていた。アジアで初の冬季オリンピックが、この年、札幌で開催されたが、我が家でめでたく長男が誕生したのは、その開会式の行われた2月3日である。巷には、「虹の地平を歩み出て・・・」で始まる札幌五輪テーマ曲「虹と雪のバラード」のメロディが流れていた。
 この冬季オリンピックでは、日本の3選手がスキーのジャンプ競技で金銀銅のメダルを独占し、日本中が沸いた。快挙を成し遂げた笠谷らは、「日の丸飛行隊」ともてはやされた。もともと、この言葉は、戦時中の日本の戦闘機部隊を指すものであったと聞く。私は、生まれは一応戦中だが、戦争をまったく覚えていない。しかし、「日の丸」から出征兵士を見送って打ち振られる小旗を想起する人達の中には、「日の丸飛行隊」の表現に違和感や嫌悪感を覚えた人も多かったに違いない。
 32年の後、日本の自衛隊は戦乱の地イラクに派遣されることとなった。もはや自衛隊という言葉から、「雪祭りの雪像」や「災害救助」を連想しているだけでは済まなくなってきた。

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1972年
(昭和47年、壬子)
1973年
(昭和48年、癸丑)


1975年
(昭和50年、乙卯)


 子供2人が加わって4人家族が完成した初めての正月である。新婚旅行では、湯原温泉、蒜山高原、帝釈峡などを訪れたが、そのときに記念に買い求めた牛のおみやげをスケッチして、この年賀状となった。結婚後5年近くが経っている。夫婦ともに大阪で生まれ大阪で育ったが、私が新設された三菱化成生命科学研究所の研究員となり、一家は、東京都町田市の竣工間もない研究所から歩いて数分の住宅地に移り住んだ。したがって、関西人の私達が、関東の地で迎える最初の正月でもあった。
 年賀状では、彫りやすさの都合で4人の名前がカタカナになっているが、正雄、美登子、久美、清彦である。長女の名前は、私の学位論文のテーマであったホオズキの「苦味」成分に由来する。女の子ならこれにしようと随分前から決めていた。長男の方は、私の母が名付けたのだが、「清」は苗字の川井ともよく合っていて、私にも異存はなかった。当時、私はまだ関西学院大学に勤務していたが、学生らは、尾崎紀世彦から取ったと思ったらしい。歌謡曲をあまり好まなかった母はもちろんのこと、私も、歌手の名前はまったく意識になかった。しかし確かに、レコード大賞を獲得した尾崎紀世彦が、初出場のNHK紅白歌合戦で白組のトップバッターとして「また逢う日まで」を歌ってから一箇月余の命名であった。

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1974年
(昭和49年、甲寅)

 私の年賀状には創作度が高いものと盗作度が高いものが混じっていて、1973年の牛は前者で、1974年の虎は後者である。この兎の絵については、わざわざことわるまでもなく子供の絵本からそっくり写し取ってきたものでオリジナリティはゼロである。

 子育てはほとんど妻に任せっぱなしではあったが、絵本や玩具を買ってくることは、私の重要な役割分担のひとつであった。我が子が読んでいる本で私の知らないものはない・・という時期があった。今でもその頃の絵本を何冊か目に浮かべることができる。しかし、当然のことながら、子供の成長につれて、私の知らない子供の世界が増えていき、私も本屋で絵本のコーナーに立ち寄ることはなくなった。

 時は何十年か過ぎて、ミッフィーという兎のキャラクターに出会い、これが、昔子供に買って帰った絵本の「うさこちゃん」とそっくり。何のことはない、ふみの日の切手にも登場することになったディック・ブルーナのこの兎は、今はミッフィーと呼ばれていた。

(註記:福音館書店発行の絵本は「うさこちゃん」であったが、今は、講談社からたくさんの「ミッフィー」の絵本が出版されている)

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1976年
(昭和51年、丙辰)

 大学1年の春休みにクラスメート3人で紀伊半島を一周したのが、初めての旅行らしい旅行であった。旅行書を参考に時刻表と首っ引きで計画を練る楽しさ、自分の足でじっくりと歩いて深まる感慨、旅行中のハプニングへの対応など、旅の醍醐味を覚えた。
 学生時代からの旅行好きは、結婚してからも衰えず、一家でよくあちこちへ泊まりに行った。この年は日本化学会の秋季年会が札幌で開かれたので、学会発表の後、家族と合流して4日間ほど道東を回った。当時のアルバムを見ると、二人の子がお揃いの帽子で写っている。姉弟ともに同じ私立の幼稚園に通っていたが、その幼稚園の帽子である。
 この北海道旅行で初めて飛行機を経験、道内の移動はバスも多かったが、当時は旅行といえば列車の旅が普通だった。娘はすぐに車に飽きてしまって、こちらが色々と相手をしてやらねばならなかったのに対し、息子は実におとなしくずっと窓の外を見続けている。ともかく鉄道が大好きだったので、息子と二人でただ電車に乗ることだけを目的に、出かけたこともある。子供にサービスしているつもりで、実は自分が結構楽しんでいたのだろう。そういえば、社宅のドアを外してその上にナインゲージのレールを取り付け、鉄道模型を走らせて遊んだこともあった。引っ越しのさい、元に戻すのに苦労した。
 なお、この年賀状の竜は、明朝の時代の白磁の鉢の紋様をもとにした。

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 この虎の年賀状は、受け取った人の評判は悪くはなかったが、実は研究室にあったカレンダーの絵を借用した。後になって思えば、どうせ盗作なら、阪神タイガースのマーク、猛虎の横顔でもよかった。前年、阪神はリーグ優勝に王手をかけながら最終戦で敗れて巨人にV9を許している。
 後には適度な阪神ファンになるが、実は当時、私はプロ野球にほとんど興味がなかった。私が小学2年生の頃より、母の俳句関係の知人のご子息が私の家に出入りするようになった。十歳以上離れたその大阪歯科大学の学生を、私はもう一人の兄のように慕った。広島県から出てきたその人はカープファンで、私もごく軽微な広島ファンになった。地元の熱烈な応援を受け続けるその球団が初めてシーズン通算勝率5割を越すのは、その大学生が故郷三原で歯医者さんになって何年か経ってからである。
 相撲は熱烈な吉葉山のファンだったが、初めて相撲に興味を抱いた小学4年生の時、足の怪我をおしての出場で話題になっていたのがきっかけであろう。後に全勝優勝して横綱に昇進したときの嬉しさは忘れがたい。
 一番最初に接したり、はじめに興味をもったもののファンになるのは、スポーツに限らず一般的なことのようだ。例えば、囲碁で、誰が好きですかと尋ねると、その人が碁を始めたときに名人や本因坊のタイトルを獲得した棋士の名をあげることが多い。誰のファンになるかは、棋風の違いなどがわかる程度に強くなる前に決まってしまっている。

(追記)このカープファンの大学生は、今は俳句雑誌「春星」の主幹でもあり、私の著書「分子から見た私たち -- やさしい生命化学」を、逸早く2010年7月号の<巻頭言>で取り上げていただいた。

 ⇒ 「松本島春のページ」

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