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 迷路風に仕立てた蛇を彫ってみた。蛇は爬虫類なのに、なぜか虫偏である。そういえば、爬虫類という言葉にも虫が入っている。虫にこだわるが、実はその昔、私は昆虫少年だった。稀にだが今でも、珍しい昆虫を見つけて新種では!と心を躍らせる夢を見たりする。
 町田市の丘陵を拓いて新築された研究所に勤めていた私は、夏の夜ともなると周辺の雑木林から建物の灯りを目指して集まってくるカブトムシやカナブンにノスタルジアをかきたてられた。それで昆虫採集を始めるのだが、採集範囲は町田市内に限り、蝶やトンボは捕まえるのが大変なので、対象は甲虫類とした。研究所の入口のあたりは夜中ずっと灯りがついていて、守衛さん達も採集に協力してくださった。市内を散歩するときは、捕まえた虫を入れる小瓶をポケットにしのばせていた。最初の2年くらいの間に目につく主だった虫たちは集めてしまった。
 この年の9月よりカリフォルニア大学サンディエゴ校に留学することとなる。4年間で集めた約100点の昆虫は標本箱2つにおさめて同僚に託して、私は家族より半月ほど先に単身で渡米した。家族に「ここには豊かな自然が無い」と書いたが、後に子供を連れて遅れて到着した妻は、自然がいっぱい!と反論した。なるほど、部屋の窓から見える道路の向かい側の斜面には、リスの仲間がちょろちょろしていたりして、手つかずの自然の面影が色濃く残っている。もともと砂漠地帯だったところで、私の期待する水や緑が溢れて昆虫相の豊富な自然とは程遠かったのだが・・・。

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1977年
(昭和52年、丁巳)
  



1978年
(昭和53年、戊午)

 1980年
(昭和55年、庚申)

 サンディエゴへ向かう小さな飛行機の窓から眼下にハイウエーが見える。期待と不安が入り混じったというよりは、むしろ不安が溢れていた。ロサンゼルスでの入国検査や空港の乗り換えは事無く済ませたとはいえ、私の英語力は心許ない。言葉の問題を抜きにしても、これから始まる大学での研究生活に自信があるわけではない。しかし、私の最大の心配は自動車の運転であった。渡米前、口の悪い同僚には「運転は奥さんに任せたら・・・」などと言われていた。
 日本の方々には、特に住まいと車の運転ですっかりお世話になった。お陰で何とか運転免許を手に入れることができたが、それでも高速道路は怖くて入れなかったし、夜の運転は避けていた。そんな折りに、年内に私の研究所からもう一人、サンディエゴのスクリップス研究所に留学してくるという情報が舞い込んだ。さあ大変、今度は私が先輩としてお世話をしなければならない立場である。まず空港に出迎えてホテルまで一家を送り届けるのが、最初の仕事である。こういう状況に追い込まれていなかったら、まだまだ私の車は高速道路を走らず、行動範囲は狭いままであったかも知れない。
 それらが一段落し、私達自身もアパートから一軒家へと引っ越した。そのような状況で作ったのがこの絵馬の年賀状である。サイズは日本の葉書よりもやや細めで小さい。
 運転にもどんどん慣れて、この年の夏休みには、1週間かけてキングズキャニオン、ヨセミテ国立公園やサンフランシスコへの旅行を楽しんだ。

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1979年
(昭和54年、己未)

 カリフォルニアより帰国した私達一家にとって、もうすぐ久し振りの日本のお正月がやってくる。それなのに「あーぁ、クリスマスが終わっちゃった」と、子等は嘆いている。小学3年の娘と2年生の息子にとって、2年間のアメリカ暮らしは十分に長く、オーバーに言えば、物心ついてからの人生のかなりの部分をあちらで過ごしている。アメリカのクリスマスは楽しいことだらけだったが、正月には大した思い出もない・・といったところであろう。
 異国での2年間は、親の私達にとってもインパクト溢れる貴重な経験の連続であった。しかし、やはり生まれ育った日本での33年間の方がはるかに長い。その間にしみついた感覚は、簡単には抜けない。昔から歌われてきた「もういくつ寝るとお正月・・」の歌詞にこめられている期待感にわくわくするような年ではないが、それでもお正月は確かに1年の中で特殊な位置を占めている。そのような私にとって、サンディエゴで過ごした前々年と前年の2回の新年は寂しかった。1月1日は確かに祝日でお休みなのだが、翌2日はすでに普通の出勤日である。その前に長いクリスマス休暇があったのだから、休む日数では「勘定」はあっている筈だが、「感情」はそうはいかなかった。正月の2日や3日に働くあのわびしさは忘れがたい。
 ところで、明朝体の巨大な「賀正」の文字の年賀状である。日本語を読み、日本語を書き、日本語を話す国に帰ってきた!という潜在意識のなせるわざかも知れない。

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1981年
(昭和56年、辛酉)

 前年より横浜マジカルグループという奇術サークルに入会していて、この年は、春のステージ発表会と、夏のクロースアップマジックの会に出演した。長い歴史をもつ由緒あるグループで、ベテランの人も多く講習のレベルは高かったが、新入会員も受け入れていた。同時期に入ったのは内科医や銀行員などだったが、私は学生時代の経験があるので、新人の中では出来る方だった。奇術の経験や技量にも、またそれとは関係のない社会的地位などにもとらわれない大らかでフランクな人間関係が、私の性に合っていた。月に2回の例会への出席は私に新たな楽しみをもたらしたが、残念なことに3年とは続かなかった。やがて仕事を変わり関東を離れることになるからである。
 手品を演じるには並み外れた器用さが要求されて、そのような能力はごく少数の特殊な人達だけ限られているように思われがちである。勿論、持って生まれた器用さも大事ではあろうが、実は、出来るようになるまで練習する根気があるかどうかが、成否を決めている。自動車の運転、スポーツ、楽器の演奏、新しい仕事、その他何でも、経験のない初めてのことは、すぐには思い通りにならない。それでもやっているうちに出来るようになるのだが、手品の場合、大抵の人は自分は向いていないと諦めてしまう。
 奇術で鳥といえばまず鳩であるが、十二支のとりは鶏である。しかし、この年賀状の鳥は、鶏ではなく鳳凰で、昔の記念切手からとった。架空の生物なので鶏との近縁関係は論じがたいが、雀やペンギンやフクロウよりは鶏の方に近そうな気がする。

(追記)横浜マジカルグループはYMGの略称でも知られている。会員らしい活動をしていたのは3年間であったが、愛知県に移ってからも、かなりの間は会員を続けていた。ずっと後で書いた近畿化学工業界に掲載のエッセー「思い込みと手品 - 常識の裏表 -」にも最後に「横浜マジカルグループ会員」と記した。今でも、YMGメール通信の仲間には入れていただいている。

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 中央は象形文字の羊で、2本の角がそれぞれ日本とサンディエゴを指している。アメリカの生活にも慣れ、一家揃って現地の生活を十分にエンジョイしている時期であった。
 英語は、慣れたとはいえ、苦労したといえば最後まで苦労した。未熟な間は、完全なセンテンスを話そうとするよりも、重要な単語かフレーズだけを口に出す方がずっとよく通じた。長い文の方が通じにくいのは、全体の抑揚やアクセントが不自然なためであろう。単語の発音で苦労したのが「two」すなわち数字の2であった。お昼によく大学のカフェテリアでハムや野菜が挟み込まれたパンを注文した。2インチと言ったのにいつも分量が多かったのは3インチ幅で切られていたからであった。徳島大学から研究室に来られていた前任者から1972年製の車を引き継いだが、チェック等で業者を訪れて製造年を訪ねられたとき、必ず「seventy-three?」と聞き直された。「seventy-two」と繰り返すと、なぜか2回目はちゃんと通じた。
 もし「五角形」を「ごっかっけい」と発音したら、日本人の耳には「六角形」と聞こえてしまう。注意して聞けば子音の「ご」と「ろ」の違いは明瞭だが、全体のひびきは促音「っ」の有無で決まってしまう。こんなアナロジーを考えてみると、きっと私の発音はアメリカ人の耳には3の面影を色濃くまとった2だったのであろう。
 なお、件の72年車は、監督スピルバーグのデビュー作「激突」で主演デニス・ウィーバーが運転したValiantと色こそ違えまったく同じ車種であった。

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