大学生となって迎える最初の新年である。京都大学工学部に入学して、私は合成化学科であったが、クラスにはほかに燃料化学科や衛生工学科などの学生が混じっていた。時間的にも、その他もろもろの意味でも、高校時代とははるかに自由になって、クラスメートもそれぞれすでに十分に個性を発揮し始めている。クラブ活動も、鉄道研究会や地理研究会、尺八のクラブなどと多様で、私は奇術愛好会に入っていた。色々と特徴ある友が多い中で自分は大して変わったところのない存在のつもりであった。
百貨店の趣味の切手コーナーで、年賀切手初日カバーのかわいい張り子の虎の絵が描かれた封筒を購入した。新しく発行された切手にその発行日の消印が押されているのが初日カバーである。たまたまその変な買い物に同行したクラスメートの発した「君は変わっているなぁ」は意外だったが、同時に、自分にも変わったところがあるのだと、なぜかほっとした。
手品が趣味という点では変人の資格がありそうだと自覚したのは、ずっと後のことだったように思う。私の級友らが京大奇術愛好会の創設に参画し、私もスタートとともに部員になった。しかし、私達が専門課程に進んで忙しくなって部活動が困難となり、奇術用品などを部員間で競売に付し、そのお金が打ち上げコンパで消えて幕となった。結局、サークルは昭和36年から38年までの2年間しか存在しなかったが、私は、初舞台として大学の創立記念祭でチャイナリングを演じたことなど、十分に貴重な経験を得た。
うさぎ追いしかの山・・・と兎は故郷のシンボルのような存在であるが、私が生まれ育った大阪府枚方市でも、その後に住んだ東京都や神奈川県でも近辺で兎を見たことはなかった。実際に野生の兎にお目にかかるのは、20年後に愛知県の豊田市に住んでからのことである。豊田の家のすぐそばのお寺の裏では何回か茶色の耳の兎を見た。しかし、やがて整備されて梅の花が見事な公園となり、兎は棲みかを奪われてしまった。さらに十数年たってからも、週末ジョギングで山の方へと足をのばしていたとき、要らないか?と、たった今捕まえたばかりの兎を差し出されたことがある。飼うのも、さばいて食べるのも、私の能力を超えるので、お断りした。囚われの兎は私の返事によって山に戻る自由を与えられたようであった。
野生の兎の話題は、この年賀状から何十年も後のことであるが、飼っている兎を初めて見たのは、私がまだ幼稚園にも通っていない幼い頃のことだった。路地裏の家の檻の中の兎を、私は長い間ずっと食い入るように見続けていたのに違いない。父は、もう家に帰ろうと私を促した。見つめ過ぎると兎の目が溶けて消えてしまうから・・・と。真っ赤な兎の目は、それほどに儚げな雰囲気を漂わせていたのであろうが、そんな作り話をそのまま信じこむほどに私は幼かった。
なおこの賀状では兎をたくさん並べたが、百貨店の奇術コーナーで買ったスポンジの兎の形をもとにした。手品用の兎はもっとずんぐりむっくりで、掌に両親の兎を握りこんでから開くと、子兎が増えているといった演技だった。
大学の3年生になって専門課程の学生実験が始まった。詳細は覚えていないが、物理化学実験で、溶液中の物質量に依存する何かの値の測定を行っていた。測定データをグラフ用紙にプロットすると、ちゃんと直線的に並んでいるのだが、その傾きが予想値から1割か2割ほどはずれている。何か間違いをしでかしたに違いないと、入念に検討したが、原因が見当たらない。実験は2人1組で行っていたのだが、物理化学の先生のお気に入りで秀才の誉れ高かった相棒も首をひねるばかりだった。色々と長い考察をつけて、結局、異常データの原因は不明という結論のレポートを二人で提出した。
年末に、その友人との雑談で年賀状の話題になり、それでは今年の作品を送りますということになった。彼のところは、その年、身内に不幸があったので、日本のしきたりでは年賀状を出してはならない。この年はなぜか年賀関係の文字がなく、また竜ならぬタツノオトシゴが描いてあって、かなり変な賀状である。これなら喪中でもさしつかえないということにした。
私は、その後、有機化学の分野に進んだが、一見説明のつかない実験結果には幾度も遭遇してきた。異常を見逃さずその原因を追及することが偉大な発明、発見につながるという例は多いが、残念ながら、私は今まで一度も大発見に至っていない。
(追記)後になって知ったことであるが、喪中の家から年賀状を出すのは避けるべきであるが、本来は、喪中の家に年賀状を届けるのは問題ないとのことである。
竹でできた玩具の蛇を彫った。この頃、私の父はまだ枚方市駅から遠くない商店街でおもちゃを売っていた。立派な玩具店ではなく、いわゆる駄菓子屋の類で、この蛇は店先に並んでいた商品のひとつだった。
淀川の向こうの天王山のふもとの大地主の次男として生まれた私の父は、枚方の田舎の大地主の養女だった母のもとに婿入りした。どういう経緯か、両親は長女を田舎に残して枚方の町に出て、そこで糸屋を始めた。商店街の家で兄と私が産まれたのだが、私が物心ついたときは、家は野菜や花の種を商っていた。その後、飴玉などの駄菓子も扱い始め、やがては安物のおもちゃが主たる商品となっていった。
姉は枚方市役所に勤めていて、時々、お店を訪ねてきたりしていた。一方、私が田舎に姉を訪ねた記憶はない。私達が姉と一緒に広い田舎家に住むようになったのは、私の中学時代も終わりに近づいていた頃であった。すなわち、私は、枚方の下町で中学生までを過ごし、その後、同じ枚方市内ではあるが、京阪の支線の4つ目の駅から田圃の中を15分ほど歩いてやっと着く田舎の家に移った。環境の激変もさることながら、ずっと借家暮らしだった私にとって、農地解放などで大半を失っていたとはいえ川井家所有の土地や小さいながらも山があるとは、まさに狐につままれたようであった。その劇的な変化から7年経ってこの竹蛇の賀状となるが、父がおもちゃ屋をたたんで借家を明け渡すのはさらに何年か先のことである。
子供が馬乗りになって遊ぶものであろうが、実物を見て彫ったわけではない。確か12年前の小学校の図画工作の時間でも同様のデザインの年賀状を作った。その時、先生から、絵や字の彫られてない周辺の彫刻刀の彫り跡を、丁寧に削ってしまうようにとの指導を受けた。それを家で話したら、版画の味を損なうようなことをしては駄目だと兄に言われてしまった。熱心な女の担任の先生で、国語や算数だけでなく音楽、習字、図画工作から体育まで全教科を一人で教えておられた。工作なら仕上げは丁寧なほどよいが、美術では彫刻刀の勢いや絵筆のタッチが大事ということであろう。後に美術系が得意な先生から、私の兄の見解に類した指摘を受けておられたようであった。
ひとりの人がすべての分野に通暁するということは不可能である。幸いにして、上記の件で私のその女先生への信頼がゆらぐことはなかった。仮名の書き方で「しよう」と「しょう」の区別が混乱していた小学校の先生や、ダーウィンの「種の起源」の種をタネと教えた中学校の理科の先生など、他にも色々な経験をしてきたが、今にして思うと、先生も万能ではない!ということを、素直に受け入れてきた。
後に、研究所の同僚の指摘により、いくつかの立派な参考書類に旋光性について堂々と誤まりが記載されていることを知った。間違いが直されていく様子も見られないので、化学の雑誌に解説を書いた。私も、大学の講義で勘違いや無知から結構ウソを言ってしまったりする。勿論、気付けば訂正し、誤解の残らないようには極力つとめている。