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寝屋川高等学校の1年生となった私は、芸術系科目で美術と書道を選択した。音痴の私にとって、消去法で、それら2つが残ったからにほかならない。その美術の時間に年賀状用のゴム版製作があって、そのときに刷った年賀状が、私の手元に残る最も古いものとなっている。
私が入学したのは昭和33年の春であるが、この大阪府立の普通高校の名は全国的に知れわたっていた。スポーツの話題といえばほとんどが野球と相撲に限られていた当時、甲子園へ3回の出場を果たしていたからである。早稲田実業とは2回にわたって対戦、息詰まる投手戦ながら好投手王貞治の前にいずれも1対0で敗れている。
さて、私が入学した後の寝屋川高校野球部は、最初の夏は大阪大会の決勝戦で敗れ、2年目は準決勝で敗退、3年生のときは確か準々決勝までであった。残念ながら、その後も、二度と甲子園の土を踏んでいない。一時は、出身高を告げると、甲子園に出た学校ですねと応じてくれる人が多かったが、今や寝屋川の名を覚えてくれている人は稀であり、また、あの本塁打王がかつてはピッチャーだったことを知る人もきわめて少ない。
年をとると昔のことが懐かしくなり、昔語りが好きになる。毎年作った年賀状をまとめてアルバムに貼って保存しているのが、四十数年分たまった。それぞれに適当なエッセー風の文をつけると一種の自分史のようなものが出来上るのではないかと思い立って始めてみた次第である。
私の生まれ育った枚方は淀川に面しており、川向こうが高槻である。淀川の左岸をたどると、枚方市、寝屋川市、門真市、守口市と続いて大阪市に至る。枚方幼稚園、枚方小学校を経て、中学校は枚方第一中学に通った。中学時代、たまたま私が抜けていたクラスで美術の先生が「川井より兄貴の方がはるかにうまかった」と評されたらしい。私より7年半ほど早く生まれた兄の子供時代は、川井家にまだ豊かさが残っていたらしく、兄は近所の画家から絵を習っていた。しかし、絵を習ったか否かには関係なく、生まれつき兄は画才に恵まれていたようだ。
庭に大きな池のあるお屋敷のその画伯からは、毎年、お正月用の短冊や色紙が届けられていた。この年も、例年通り短冊が届いていて、この年賀状は、その短冊に描かれていたネズミを模して彫ったものである。
兄が友人から受け取る年賀状に、葉書の面を隅々まで使って闊達に彫られた版画があった。ジャガイモを切って現れた面を彫って作る芋版に毛が生えた程度のものが普通だった当時としては、その人の年賀状がいつも異彩を放っていた。ゴム版の年賀状を始めて何年かは、ちょっと素人離れしたそれらの版画の印象が常に頭の片隅に残っていたように思う。私の年賀状のルーツともいうべきその版画の創り主は、デザイン、建築関係の道に進んだとのことである。
私は手先は器用な方だが、もっと全身を総合的に動かす運動となると、きわめて苦手である。幼児期にあまり戸外で友達と遊び回るということをせず、家の中で過ごす時間が多かったせいかもしれない。泳げない男子は少なく、自転車に乗れない子は希有であったが、私はそのいずれでもあった。見かねた親友が、高校1年のとき特訓をやってくれたお陰で、自転車には乗れるようになった。しかし今でも、雨の日に傘をさして、片手で自転車に乗ることはできない。
京阪電車での帰校がその友人と一緒になると、実にしばしば、ひと駅乗り過ごして、次の駅近くにあった彼の家で時間を過ごした。お姉さんが学校の先生だったからか、友人宅には、当時としては珍しい大部な図案カット集があった。この年賀状の製作にあたっては、その図案集から、版画に彫りやすそうなシルエットの牛を選び出して用いた。時は、多感な高校3年生、思いがけずも受け取る異性のクラスメートからの年賀状に心を躍らせたりもした。
見よげなる 年賀のふみを 書くひとと
思ひ 過ぎにき 三とせ ばかりは
啄木の「一握の砂」にこのような歌があった。実のところは、いつか新聞か雑誌で見た川柳の「年賀状 だけに つながる 淡い仲」に過ぎなかった。