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「 さ ま ざ ま な 話 題 」  

⇒ 皇紀2602年の卒業アルバム ⇒ 片埜神社のしめ縄

⇒ 昔の私と新しい出会い ⇒ あらためて眺め見た我が故郷

昭和52年の枚方(米国人の目に映った我が故郷)

 昭和47年、私は生まれ育った大阪の枚方市を後に東京の町田市に移り、せっかく新築した2階建てで暮らした期間は短く、空き家となってしまいました。その後、短期間でしたが、来日した米国の化学者の一家にその家を使っていただいたことがあります。
 一家は大学教授、奥様、お嬢さんの3人でしたが、私は一度もお会いしたことがありません。来日の時期が、ちょうど私がサンディエゴのカリフォルニア大学(UCSD)への2年間の研究留学への出立と重なっていたからです。お父様の専門である化学(ケミストリー)に因んでお嬢さんのお名前がケミーであるということがわずかに印象に残っています。
 隣棟に住む私の両親がご一家をお世話したのですが、最近になって、母が残しておいた昔の「ひらかた新聞」の切り抜きのコピーが見つかりました。当時のことを奥様が書かれた文の翻訳が掲載されていて、読んでいると古き良き時代の日本の思い出が懐かしく蘇ってきますので、以下に紹介します。




  ひらかた新聞(昭和53年2月15日)

〝いいまち枚方〟の印象 

                     エデイ・バンダイク(米国)

 緑の丘を背に、古い伝統を残す田園の集落と新しい住宅団地が進出し、〝開発〟のコントラストを描く枚方市釈尊寺町 — 。そこの旧家・川井謙治郎氏宅に約三か月滞在、自然の風土にとけこんだ古い民家の〝美〟に魅せられ、家族的に暮したアメリカ人一家(大学教授)の目に映った〝いいまち枚方〟の印象。だが、失われゆく東洋的郷愁に対する喜びと落胆 — そして、あたたかい友情(感情)で結ばれた人々の絆を「日本に就いての印象記」で興味深く述べている……。

その〝人情〟と郷愁・・・  村祭りや運動会 美しい思い出に

 こうして筆をとったのは、日本の人々全体とその中の幾人かの日本人に、個人としてお礼を申し述べたいがためです。
 ここでは、アメリカ人の一家という立場から、昭和五十二年の八月末から十一月末までの三カ月を人々とともに過ごした間に感じたこと、経験したこと、そして人々との出会いについて述べてみようと思います。
 一家の名前は「ヴァン・ダイク」と言い、父親の「チャールス」母親の「エディ」それから娘で五歳の「ケミー」からなっています。
 父親は米国・ペンシルベニア州。ピッツバーグ・カーネギー・メロン大学の教授をしております。
 日本に滞在することは予期せぬ出来事でありました。もとはと言えば、この一年間の有給休暇はドイツでずっと過ごすということになっていました。それが、いざ出発という時になって三カ月間は日本の京都大学で過ごす事に変わったのでした。そうして日本を訪れた結果、沢山の人々と親交を結ぶことができ、日本の生活様式についてもより深く理解することもでき、更に日本を愛するようにもなりました。
 私達が日本に着いたのは、八月ももう終わる頃で、気候は大変に暑く湿度も相当なものでした。これから過ごす家とそこの住み心地が、最初の一週間を京都市内のホテルで過ごすころ心配になってきました。併しながら京都大学のクマダ、イシカワ両教授の御厚意により住居が見つかったのです。
 京都中心部に近いアパートか、市内から電車で一時間のところにあるお宅かを選ぶことになりました。私達は個人のお宅をお借りすることにしたのですがその決断は、間違ってはいませんでした。

▽——— 
土塀に囲まれた古い民家に驚く

 そこで暮してみて一番驚いたことというのは、私達が他の大勢の旅行者のように、日本の文化社会の周りで暮らすのではなく、典型的な日本人に混ざって暮らしているということでした。
 この社会では私達が唯一の外国人のようでした。近所の子供達に出合うと、その子等はじっと見てそれからクスクスと笑ったものでした。隣の家屋にカワイ夫妻が住んで居られました。お住いは特徴ある土塀で囲まれた二百年ほど昔に建てられた日本家屋でした。二百年というこの歳月は、私共の米国が、この家と丁度同じだけ古いということを考えますと私達には大変なショックでした。
 カワイ夫妻の歓迎はすぐさま私達の心にしみ渡りまして違和感などというものは全く消えてしまいました。お二人は最初から「ケミーちゃん」に理解を示され、お気に入りのようでした。この子の両親であります私達にとって、このことは私達がこの新しい文化社会にすばやく、そうして無事に融けこんで行く上で大切なことだったと思っております。
 それから何日も経たない頃、私達は近所の人達の訪問を受け「この村落の行事に加わりましょう」と励ましをうけました。そうしてこの家のすぐ裏手にある神社(釈尊寺)での村祭りに参加しました。また稲刈りやそれを束ねるお手伝いをしましたし、米がどういう具合に脱穀されていくかも見ました。
 また毎日の食料品を数多くの市場に買い求めに出かけました。そこでは商人が個々に家族を使って自分の店を持って商売をしていました。スーパーとは異って市場が「個人商店の寄合い」だと言うことのようです。
 それから私達はケミーを「うみのほし幼稚園」に入れました。枚方市にある託児所付幼稚園に入れたということは私達三人にとっては、すばらしい体験でした。ここで私達が日本語を全く知らなかったということを思い出して頂きたいのです。
 日本語と漢字は私達には大そう複雑に見えました。しかしこの言語の障壁があっても、うみのほし幼稚園のキタハラ先生がケミーを編入させ、そうして愛情を注いで下さるのには何の差し障りもありませんでした。ケミーにとって幼稚園での最初の幾日かは何事も分からないらしく、両親でこの子がうまく融け込めるよう手助けをするようにと幼稚園の方からも要請をうけました。

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幼稚園の躾と娘のお友だち…

 私と主人がうみのほし幼稚園で先ず感じたことは、私共の国の標準と比べてみて規模が大きくて子供達の数がずっと多いということでした。このことが日本の殆どの学校の典型的な事情であっても、大事なことは子供の一人一人が受ける世話であり気遣いでありそうして躾に変わりはないことだろうと思います。ケミーは私達が当地へ到着してから数週間後にあった運動会の練習に始めから加わりました。
 これは私達三人にとって新しい経験でした。それにしてもこんなに幼い子供達が競争で競い合ったり、きちんと遊技などするのを見ているのは奇妙で、おかしくさえありました。キタハラ先生が私達を来賓席に座るようにと招いて下さった時には幼稚園の「偉い人」になったような気がしました。
 ケミー以外の全員が、寸分違わない正確さで遊技を立派にやってのけたのには、心暖まる思いがしました。それでも両親はケミーちゃんのことをよく知っていましたし、言葉の問題も心得ていましたので、とにかくこの子を褒めてやりました。このことがあって以来、私達は先生方や同級生達が大変好きになりましたし、お別れを言うのが辛くなりました。
 この人達は多くの日本の美しい思い出を私に与えて下さいました。
 私達は次にどんなことを日常の暮らしの中で、印象に残るものと言えばよいのでしょうか。
 私達が気付いたことの一つに、日本人というのは大変に能率のよい「人運び」の名人だというのがあります。多数の郊外からの通勤者(夫のチャールスもその一人です)は、目的地との往来を主に能率の良い鉄道便で運ばれるのです。しかし、バスの便は少なくとも京都市内では、ややうまく働いていなかったようであります。
 子供達を大変に可愛がるということは、日本人の目立った特質の用で毎日の様に見受けられました。日本の子供達は混雑した電車の中では、男の人、女の人、十代の若者から席をゆずってもらうのです。子供達はどこへ行くのも両親と一緒でお行儀よくしています。親が子供達と一緒に遊んでいるところがいつも見受けられました。親がこうして子供達に愛着を示すことと、愛情を与えることでその子は六歳頃になると自信を持った性格を示すようになるのです。私は今、日本の子供達が凡そ六歳で一応の成熟をし、自尊心を身につけると申しましたが私達は実際、小さな子供達が一人で電車に乗っていたり、自分のお金で一人でお菓子を買ったり、車や人のよく通る道路で自転車に乗ったりしているのを見たことがあります。私達は両親や、先生や、他の大人達を敬っているのに気付き、そうして感心しました。

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スリや泥棒のいない電車とまち

 このように他人達を気遣うことが、多分日本を訪れる外国人が是非とも知らねばならない日本の犯罪発生率の低さの理由の一つになっているだろうと思うのです。日本に最初に着いた日から、私達はいつでもどこでも絶対に安全なんだと感じました。混雑した電車の中である程度押し合ったりぶつかり合ったりする中でさえも、スリの心配は無用でした。また私達はどの食料品店でも無防備のお金を入れておくカゴや、放ったらかしの自転車(しかもしばしば食料品が山と積んであるのです)には最後まで驚きは止みませんでした。
 そこでの買物は米国で慣れ親しんでいるやり方とは全く違っていました。(小さな食料品店はずいぶん前から合衆国の殆どの地方では次第に無くなりつつあります。)それでも私達が品物の質と値を比べながら店々を転々と廻ることはワクワクするようなことでした。
 しかしながら度々どの日にどの店が閉まっているということをすっかり忘れて、何を買おうかなどという計画に熱中していたりする日に度々会いました。すぐに私達はここにはすべての店に共通の日曜、祝日以外の「休みの日」というものが無いことを知りました。
 初めの頃はマグロという生の赤い魚肉や、他のごちそうでも悩まされました。それでも次第に多くの日本の食べ物を好んで食べるようになりました。その中にはあのマグロもハマチも入っていました。
 私は冷凍してある果物、フルーツジュース(冷凍)野菜や食後に食べる冷凍果物に慣れ親しんでいましたが、そういう物の種類が少ないのに驚きました。併しながらきれいで新鮮な野菜、果物は冷凍のそういう類の不足を補って余りありました。私達にもの珍しく思わせたものにナシ、小さな紫色の種無しブドウ、カキ、そうした種無しのミカンがあります。
 肉片は肉らしくない(うすく切ったもので)肉は米国でよりもずっと高価でした。魚の種類はアメリカ人の訪問者には、くるものくるもの覚えていてもきりが無い程多いのです。

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野菜、果物は新鮮だが肉は高い

 軽食の類(インスタント食品のことを言うのだと思います)が売り場を占める広さと言ったら、私達が米国で慣れているのとは比べものにならない位の広さです。アメリカ流即席の軽食、ハンバーガーの立売りしているところを見つけると、喜びと落胆の両方の気持が同じに起こりました。喜びというのはそのハンバーガーの売り場が郷愁を感じさせてくれたからで、落胆はそこに東洋的な魅力と美しさが無いからでした。
 最後に、日本の人々のあたたかいもてなしについて感じたことはとても表現しきれるものではないと言わなければなりません。この私共のうけた感じというものは友情という感情的な絆で強く結び合わされているものだからです。
 日本のことを思う時、私達の脳裏に浮かぶのはイシカワ夫妻のこと、カワイ夫妻のこと、スグリ一家のこと、ヨシオカ一家のこと、キタハラ先生、そうしてうものほしのことなのです。そういう人達が(うち何人かのお名前は記憶にありませんが)自分のためでなく、私達のために私達の必要とする時に何度も様々な方法で好意を示して下さいました。そういう人達こそが、日本人とはどういう人かということを私どもに教えて下さったのです。 (翻訳=富樫史郎・枚方市香里丘)

 写真: 日本の〝美〟を残す田園の集落と、新しい団地進出で〝開発〟のコントラストを描く枚方の釈尊寺付近

 写真: 釈尊寺の民家で暮したエディさん一家(川井氏宅で)

 

⇒ 片埜神社のしめ縄

 
 

皇紀2602年の卒業アルバム

 高校時代の友人のご父君は大阪大学の名誉教授であるが、その友人がかつてのお家を処分するということで、古い本などに興味があるなら、よろしければどうぞ!と声をかけてくれた。私の学生時代に発行された理科年表や昔の教科書など数点をいただくことにしたが、さらに貫禄がある装幀の分厚い本が目にとまった 。開いてみるとアルバムであった。表紙の左上に「T」の字、右下には数字の「2602」だけがあって、背表紙は髭文字のドイツ語で「Erinnerung an der Universitaet」、裏表紙は大学マークである(写真左)。最初のページの中央部に写真があって、上に大学マーク、下に「大阪帝國大學 工學部機械工學科」と記されている。写真は、計算尺、学会誌(?)、洋書、花瓶とともに、灰皿の煙草から煙が立ち昇っていて、いかにも時代的なアカデミックな雰囲気が感じられる。なお、この書物で文字と呼べるものは、ほかには、最後に「NISHIMURA ABENOBASHI」というロゴ風のマークが印刷されているだけで、すべては写真のページである。このまま廃棄されるべきではない貴重な資料である可能性が高いと思い、これも持ち帰ることとした。

 いつ作製されたかについての手がかりは「2602」であって、神武天皇即位2600年の記念行事が昭和15年に行われており、このアルバムは、昭和17年、すなわち私が生まれた年に作られたものということになる。

 70ページのすべてに写真が糊貼りされていて、背表紙の Erinnerung(追憶、回想)からも卒業記念アルバムの類とみなしてよいであろう。文字の少なさなどから、公式アルバムと呼べるものであるかは疑問であって、卒業生が申し合わせて、写真館にアルバム冊子の作製を依頼し、写真は各自で貼付けたかも知れない。最後のページは学生一人だけの大きな顔写真なので、このページだけが各人それぞれ自分の写真を貼り付け、残りのページの全部あるいは大部分は機械工学科の卒業生全員が共通に同じ写真を用いたのではないかと推測される。先ず、正門の写真があって、それに続く写真は多分、当時の阪大の学長、工学部長、機械工学科の学科長、教授たちであろう。そのあとは、大学キャンパス、講義室、実験室や大学の近くで撮影されたものであろうが、すでに戦時中であり、銃を用いての訓練らしきものも写っている(写真右上)。

アルバムのページの一部を紹介

 大学の公式アルバムであるか否かにかかわらず、当時の貴重な写真資料であり、個人で所有しているよりも、適当な施設で保管していただくのが適当であろうと思い、大阪大学総合学術博物館とコンタクトをとった結果、大阪大学アーカイブズに寄贈することとした。

 ⇒ 昭和52年の枚方
 

片埜神社のしめ縄

右巻き? 左巻き? ー

 我が家のすぐ西側に小さな神社があって、年末には釈尊寺町の面々が集まってしめ縄を作ります。隣の茄子作町の春日神社はもっと大きくて立派ですが、先日、その注連縄が今年はすべて左巻きになっていることに気付きました。神主さんに、右巻きが普通なのに今年はなぜ左巻きなのですか?とお尋ねしたところ、えっ、そうなんですか!と、大して気にされていないご様子です。氏子さんが奉納してくださったものを掲げさせて戴いており、巻き方がどっち向きであろうと有難いことに変わりはないとのことでした。機会があれば、氏子総代の方にお話をお伺いしたいと思っています。

 実は、7年ちょっと前に、同じ枚方市内ですがずっと離れた牧野駅の近くの片埜神社のしめ縄が左巻きであることを発見!・・・「右らせんと左らせん」と題した解説記事を大阪市立科学館発行の「うちゅう」誌(2013年2月号)に書いた中でそのことに触れました。図の3つのしめ縄で、(a) が多数派の右巻き、(b) が少数派の例で片埜神社の左巻き、(c) の出雲大社の大きなしめ縄は右巻きで普通とはかけ方が左右逆という説明です。

 気がかりになってインターネットの画像検索で片埜神社のしめ縄の写真を見てみたら、何とすべて右巻きです。さっそく片埜神社を訪ねたら、確かに下の写真のように7年前とは反対の右巻きです。

片埜神社の注連縄 (左:2012年12月24日撮影、右:2020年3月15日撮影)

 神社の方にお尋ねしたところ、巻き方はあまり気にしたことがないけれど、最後にかけるときに反対にかけただけじゃないでしょうか?とのレスポンスでした。「うちゅう」誌の私の記事のコピーを用意していたので、その中の図を示して「どちらから見ても右巻きは右巻きなんです!」と説明した次第です。

(a)右らせん、手前から向こうにたどると右回り (b)左らせん、手前から向こうにたどると左回り
(c)右らせんは、どの方向から見ても右らせん

 総代のYさんがしめ縄作りをずっとやっておられるので、事情をご存知でしょうとのことで、畑仕事の最中のYさんをお邪魔しました。特に逆巻きに作った記憶はなく、その年だけたまたま間違えて作ってしまったというのが真相のようです。40歳の時から神社総代を務めておられ、とても86歳とは見えない元気さで、牛を使って耕していた頃の昔語りなども興味深くうかがいました。

 しめ縄の右巻き/左巻きの混乱は大阪府の東の端っこ枚方市の小さな神社だけの問題ではなく、驚いたことに、縁結びの神として名高く、全国さらには海外からも多数の参拝者、観光客が訪れる島根県の出雲大社にも同様な状況があったのです。コムギの祖先を発見された遺伝学の大御所、木原均先生の著書「生物講義」(講談社サイエンティフィク、1976年)の中に、出雲大社のしめ縄の巻き方について次ぎのような記載があります。「今年の春、出雲大社に行きました。図1.28は拝殿にさげてあるしめ縄で、私が考えていたとおり左縄でした。そして向かって右が細く、左が太くなっています(太い方がない始めで、細い方が終わりだということです) 拝殿が左縄だから本殿もさぞや左縄だろうと思って拝観しました。・・・(中略)・・・ところが、本殿の正面にかけられているしめ縄は驚いたことに右縄なんです(図1.28)。」 確かに先生と一緒に写っている拝殿のしめ縄は現在とは逆の左巻きです。

木原均著「生物講義」の中の出雲大社の写真と表紙

 現在の出雲大社のしめ縄は、本殿、拝殿、神楽殿すべてが右巻きですが、千家尊統著「出雲大社」(学生社、初版 1968年)にある拝殿、神楽殿、國造館の写真のしめ縄がすべて左巻きです。残念ながら本殿の写真ではしめ縄が写っていません。しかし、さらなる新発見として、もっと古い戦前の絵はがき2点の入手に成功! 何と、拝殿のしめ縄は一つは右巻きで、もう1つの方は左巻きです。

 らせんの右巻き、左巻きについて、一般には必ずしも十分な理解がされてはいないと常々思っていましたが、神社などに関わる方々のしめ縄の巻き方についての認識も同様のようです。木原先生は、出雲大社の拝殿と本殿の違いについて「あとで私は、このことについて係りの人にきいてみたところが、全く予期しないような答が返ってきました。それは、業者に注文して、つくってきたものをそのままかけているのだと、こういうのです。非常にがっかりしました。鎌倉の鶴岡八幡宮でも同じようなことを聞きました。」と書かれています。また、「神社のしめ縄はそのほかでも混乱していて、箱根神社でも全く同じ建物に、あるときは右縄、あるときは左縄がかかっていました。係りの人に質問したら、『縄は見かたによって右になったり左になったりするんでしょう』と答えました。そんなことは絶対にないと言ったら、かえって向うがびっくりしていました。」といった記述もあります。これらのエピソードから約半世紀後に、私も同様なことを経験したという次第です。

 出雲大社については、しめ縄のかけ方が普通とは左右が逆になっていることは程々には知られていて、それが巻き方についての認識に混乱を生んでいるのかも知れません。木原先生のお考えのように、出雲系は大陸から稲作を持ち込んだ左縄文化圏の民族で出雲大社のしめ縄も元々は左巻きであったとすれば、何時頃からどういう経緯、理由で右巻きに変わったのか大いに興味があります。

<注記1> 上図の右らせんの形を右巻き、左らせんを左巻きと呼ぶのが一般的であり、種々の学術分野の表記とも一致します。しかし、例えば、アサガオのつるは右らせん、すなわち右巻きですが、かつては左巻きと呼ばれていました。その先端の成長を上から眺めれば左回りであり、また成長端から自身の伸長の方向を見ると左旋回になります。図鑑等でも今なお呼び方の混乱が完全には解消されていません。木原先生の文では、右縄を右巻き=右らせん、左縄を左巻き=左らせんとされていますが、我が国古来の呼び方はその逆で、右らせん形を左縄、左らせん形を右縄と呼ぶのが普通のようです。インターネットで検索すると、「左縄」として地鎮祭などの神事用の右らせんの縄が販売されています。同様に、左綯(な)え、左綯いも、右巻き=右らせんを意味します。

<注記2> 神社のしめ縄の約80%が右巻きで、少数派の左巻きのしめ縄は中国四国地方に多いとの記述を読んだ記憶があるのですが、その出典がみつかりません。因幡の白兎を祭神とする鳥取県の白兎神社のしめ縄も左巻きです。

<追記> 木原先生の本に出雲大社のしめ縄の巻き方についての記載があることについてや白兎神社のしめ縄については、中島路可先生(鳥取大学名誉教授)に教えていただきました。

(2020年3月18日、加筆26日)

⇒ 右らせんと左らせん  ⇒「世の中には何故らせん構造が多い?」  ⇒ クズとフジの葛藤

  



昔の私と新しい出会い : 初参加のウォーキング   川井正雄

大阪活性化総研(NPO ODI)ニュース 31号(2022.7)p3(参加日 2022.4.20)


 第1回の茨木コースに参加した。孫の初参りのお宮さんであった茨木神社に続いて訪れた川端康成文学館が強く印象に残った。展示されていた小説「古都」にまつわる様々な資料は60年前の私の青春時代へのノスタルジアをかきたてた。大学1年生の私が毎日読んだその康成の新聞小説の感動の名残であろうか、今でも北山杉や周山 街道という言葉に憧れのような響きを感じる。1年ほど後に映画化され、主演の岩下志麻が双子の娘を演じる「古都」を観るため、母を誘って京都の映画館を訪れた。しかし、残念ながら上映はその前日までで目的は果たせなかった。代わりに、私が少し前に下宿していた地に近い一乗寺下り松や詩仙堂など東山山麓を散策することとなり、母の句集に「子と歩く洛東の春雪清し」が残っている。

 文学館前の川端通沿いの緑地でお弁当の後、市内散策が続く中で初参加の私も同行者と言葉を交えた。川端康成の母校茨木中学校を前身とする茨木高校の卒業生で私と同年の方が何人か参加されていた。大学時代からの親 友で茨木高校出身の旧友の名をあげると大の親友でしたとのこと・・・惜しくも3年半前に他界したその友の思い 出話になった。

 文学館前の川端通沿いの緑地でお弁当の後、市内散策が続く中で初参加の私も同行者と言葉を交えた。川端康成の母校茨木中学校を前身とする茨木高校の卒業生で私と同年の方が何人か参加されていた。大学時代からの親 友で茨木高校出身の旧友の名をあげると大の親友でしたとのこと・・・惜しくも3年半前に他界したその友の思い 出話になった。

 古稀は過ぎ、傘寿が迫っていて体も頭も不如意を実感する日々であるが、どちらも使わなければ衰えが早く、上手に使えば長持ちする筈と信じている。流れに任せると歳とともに社会が狭まっていくが、交友の減少も心身の衰退を進めるに違いない。付き合う年齢層が広く、異性が含まれることが若さを保つのに有効とされている。そんな思いもあって、高校の同窓生(女性です!)のお誘いでこの会への初参加となったが、期待通り女性の参加者は多かった。若者は殆どというか全然居なかったかも知れないが、図らずも多感な青春時代の自分に出会ったかのような感慨を味わった。また新たな出会いを期待して次回が楽しみである。

(注:ODIニュースの「春のウォーキング、3 年ぶりに全 4 回実施!」の記事)



あらためて眺め見た我が故郷「枚方」~第 2 回コースに参加して~ 川井正雄

大阪活性化総研(NPO ODI)ニュース 45号(2026.1)p3 (参加日 2025.11.5)


 今回のウォーキングは私が生まれ育った枚方市が舞台である。東海道五十三次よりも大阪側で、江戸から56番目、「京街道」のほぼ中央に位置する宿場が枚方宿。コースは枚方公園駅が始点で、先ずは、淀川左岸の堤防から広大な淀川河川公園を眺めた。江戸時代には京都と大阪を結ぶ淀川三十石船の中継港として栄えた。今は大阪の八軒屋浜とを往復する遊覧船の船着場があるだけだ。堤防上に「郵便屋の渡し跡」の石碑がある。その辺りの舟着場から、早くに国鉄が開通していた対岸側の高槻駅まで、渡し舟で郵便物を運んでいたのだという。東西 1.5km ほどの枚方宿の大阪側の端、「西見附」から旧街道を進み、昔ながらの佇まいの鍵屋資料館に入った。

 この建物は、元は三十石船の船待ち宿で、表側が京街道、裏側が淀川に接していた。現在、すぐ裏は道路で本流とは0.3 キロも離れているが、当時は淀川から直接宿まで客を乗せた小舟が漕ぎ入っており、施設内に当時の様子が模型で再現されていた。その他、参勤交代の大名行列のジオラマ等々とても一度では見尽くせない充実した資料館である。

 古い街並みの雰囲気が残る街道を外れ、秀吉ゆかりの「御茶屋御殿」跡で京街道を眼下に淀川の向こうの高槻を遠望しつつ弁当を開いた。午後は堤防沿いの「淀川資料館」で実物や模型を含む多角的な展示を見学の後、街道歩きに戻った。昔懐かしい店も残ってはいるが、東に進むとともに旧街道の面影は薄れ、私が 83 年余り前に生を受けた商店街の辺りも通り過ぎた。枚方宿の東端の東見附まであと約 3 分の 1 が残る「宗佐の辻」で京街道と別れ、ゴールの枚方市駅へ。

 34 年間離れていた枚方に定年で戻って約 20 年を経た私にとって、感慨深い 1 日であった。

(注:ODIニュースの「2025 年度秋のウォーキングが無事終了」の記事)


(別版)あらためて眺め見た我が故郷「枚方」 川井正雄

本稿は、ODIニュースに掲載された寄稿の作成過程での産物で個人的な思い出も多い。

 枚方市の中心部すなわち京街道沿いの下町で生まれた私は、而立の30歳で故郷を離れ、63歳で定年を迎えて枚方市に戻った。現在まで合わせて約50年の枚方市民歴で、ウォーキングは懐かしい思い出の中に新しい学びもあった。

 先ずは淀川の河川敷を訪れたが、子供の頃に水溜り(ワンド)でタナゴの類を釣った草深い風景とは大きく様変わりで、整備された雄大な河川公園が広がる。此処をスタート、ゴールとするマラソン大会には何回か参加している。

 堤防には『郵便屋の渡し』の石碑や大きな『明治18年洪水碑』があるが、私自身の記憶に残るのは昭和28年頃の堤防決壊の危機である。残した家財すべてが失われるかも知れず、一番上等の服を来せられて家を出た。一旦は高台にある意賀美神社の社務所に避難、最終的には枚方小学校の教室で一夜を過ごして無事に帰宅した。

 今回その意賀美神社を訪れたが、子供時代はこの周辺で虫籠を蝉で一杯にするほど蝉取りに励んだ。かつては宮司の御一家と我が家は家族ぐるみの付き合いであったが、その何代か後の現在の宮司より神社の沿革などの丁寧な解説を受けた。神社名は「おがみ」でなく「おかみ」が正しいと始めて知った。

 秀吉ゆかりのお茶屋御殿跡で枚方宿と淀川を望んで昼食の後、再び堤防に戻り、淀川資料館に入った。渡し舟の資料の展示で蘇ったのが、上流の橋本から対岸へ渡った昭和37年春の記憶で、大声で「オーイ!」と呼ぶと高齢の船頭が舟を漕ぎ出して迎えにきた。淀川と桂川を渡って山崎から天王山に登ったが、この渡し舟が運行を終える最後の年であったことは資料館で知った。34 年間離れていた枚方に定年で戻って約 20 年を経た私にとって、感慨深い 1 日であった。

 ウォーキングの締めは京街道と磐船街道との分岐点『宗佐の辻』の石碑の説明であった。このすぐ横の呉服店のお嬢さんとは「〽︎お手々お手々つないで幼稚園」の仲であったがその創業嘉永元年の老舗も今は無く、大変貌した枚方市駅の周辺に昔の面影を見つけるのは容易ではない。

(高齢の船頭さんの渡し舟の思い出は以前に俳句誌に寄稿した。 ⇒『渡し舟』


⇒ 昭和52年の枚方 ⇒ 皇紀2602年の卒業アルバム