私の家にもパソコンが入った。息子の強い希望であったが、実は私もパソコンで遊びたかったからである。子供達のゲーム機として家庭へのパソコンの普及が始まるという世の中の流れの中で、親の私も寝不足になるほどに楽しんだ。確かにあの頃にパソコンにのめり込めた人は幸せであった。急激に進化するコンピューターの歴史の中での特異な一時期である。
電源を入れるとBASICプログラムのモードが立ち上がった。パソコンに同梱されてくる付属のゲームよりも、自分でプログラムを書いて作ったゲームの方が、出来がよくて面白いという時代であった。研究で大型計算機に用いていたFORTRANと異なり、BASICは子供にも取っ付きやすかった。大の大人や高校生とともに小中学生もゲームプログラムを作って楽しみ、月刊のパソコン雑誌に作品を送ったりしていた。息子も何回か、短いプログラムの募集に応募していたようだ。
いつのまにか市販のゲームは進化して、素人の作ったプログラムの比でなくなってしまった。息子への誕生日プレゼントが、私の作った2匹の蛇の競争ゲームだったなど、今となっては信じられない状況である。あのころの努力は、後に、研究用の計算プログラム作成にも大いに役立った。
この年の年賀状は、近くの神社の狛犬を彫った。あまり見かけない「祈開運」の3文字が並んでいるが、狛犬には似合っているかもしれない。研究者としての私のその後の人生に思いをめぐらし、教育にも携わることのできる場へと移る可能性を模索していた時期ではあった。
日本列島を西へ向かって駆ける猪の年賀状である。11年間勤めた三菱化成生命科学研究所を退職し、この4月に名古屋工業大学に赴任することになる。いずれは故郷の枚方で暮らしたいと思い続けてきたが、大阪までは届かず、まずは名古屋で途中下車といったところである。
大学は、緑豊かな鶴舞公園に隣接していて、鶴舞まで乗り換えなしに電車1本で通える豊田市に住むことにした。近くのお寺の裏山は毎朝の犬の散歩に絶好だったし、梅雨の頃には、お寺の前の道で蛍が飛び交うさまを見ることができた。都会には近くて、周囲には緑溢れる自然があるという環境は、私の昆虫趣味を抜きにしても、住む場所のひとつの理想像といえよう。豊田から名古屋はすぐであるが、私の生まれ育った枚方市は大阪と京都の中間に位置しているし、関東に出て住んだ町田市、海老名市、大和市からは新宿や横浜に簡単に出ることができた。そういう意味では、常に私は都会に近い田舎に住んできた。
いずれの地もカブトムシなどの昆虫に恵まれていたが、蛍についていえば、越してきて20年もたつと、すっかり見かけなくなってしまった。矢作川の支流で蛍がたくさん見られるとの記事が新聞に出たので、私達も車で出かけた。人も蛍も多かったのだが、一人のおばあさんが蛍を捕まえては孫の虫かごに入れていた。彼女が過ごしてきた時代とは異なり、今や郊外でも蛍は珍しい存在だ。かつては微笑ましい情景だったはずの行為が、顰蹙を買う所業として非難の目にさらされていた。それに気づいていない彼女を見るのがつらかった。
御所車を彫ったが、我が家には牛車は勿論、自動車も無かった。2年前に車の町、豊田市に越してきたのだが、駅にもスーパーにも近いのでマイカーは不要と判断して、車用のスペースにも椿を3本植えてしまった。最初の年は、息子はまだ小学生で挙母(ころも)小学校に通っていたが、「次ぎの子供会の行事に、お宅から車を出してもらえますか?」といった電話が時折かかってきた。我が家には自動車が無いと答えると、思わず息を呑んでいる雰囲気が受話器を通して伝わってくる。車のセールスマンに、うちは車は要らないと説明しても、なかなかわかってもらえない。トヨタ自動車の社名にちなんで挙母市から豊田市に改称されたのは四半世紀以上前のことで、豊田市民にとってマイカーを持たない生活は常識の範囲を超えた存在だったようだ。
なお、車の町で車を持たずに済ませる生活は 10 年間弱で終わり、やがては私達も人並みにマイカーを購入することになる。妻の勤務する南山高等・中学校の国際部が、平成5年に南山国際高等・中学校として独立、豊田市に移ってくることとになり、電車通勤からマイカー通勤に変わるからである。我が家の駐車スペースには、椿のほかに、すでにキウイフルーツ、サクランボなども植わっていて、横を走っている名鉄豊田線の高架下の月極駐車場を利用することとなる。
なぜか植えた覚えもないのに、この「元駐車場」に桑の木が1本育った。後には、理科を教えている妻が教材業者からカイコを入手してくれたので、この桑の葉を用いてカイコを育て、繭を作らせて楽しんだ。
1985年の秋に、父が83歳で突然この世を去った。晴れ渡った体育の日のことであった。小さい頃の私は、父に連れられて随分よく歩いた。電車でひと駅分程度は毎度のことで、京阪の八幡の駅から、木津川、宇治川を越え、舟で桂川を渡って、山崎まで歩いたこともあった。お盆に墓掃除のため生まれ育った山崎へ戻る父のお供であったが、男山の麓から天王山の麓まで子供の足には結構な距離である。運動が苦手な私の足がいたって丈夫なのは、子供の頃のこれらの「特訓」のお陰であろう。長距離の方が得意だが、運動会では何回かリレーの選手にも選ばれていたから、短距離もほどほどには速かった。
喪中の挨拶を書いて年賀状を休んでしまうと、何十枚もゴム版を刷る作業が億劫になってしまった。それで、この年はゴム版を1枚だけ刷って、それを印刷屋に持ち込んだ。下に余白を設けて差出人の住所氏名も入れる省エネ版である。世にワープロもプリンターもまだ無く、宛名書きが大仕事だった時代である。さて、刷り上がって届けられた年賀状には、いたく失望し、また憤慨した。気をきかせたつもりだろうが、背景の模様の色が勝手に淡色に変えられていたからである。琉球の年賀切手のデザインを借用して作っただけなのに、創作の芸術作品を改ざんされたような思いがした。結局、これがゴム版の年賀状の最後となった。
立方体もどきの枠組みはトリックアートの1種である。滑り落ちそうに見えるネズミも居るが、どれが水平面でどれが垂直面かわからない不可能図形である。M. C. エッシャーの絵には、多義図形や不可能図形が多いが、メビウスの輪などは実在ながら不思議感をたたえている。ひとひねりしてつなげた帯で、表を進んでいるつもりが裏側に出てしまう。
私は野山を歩き回るのが好きだが、入り組んだ町並みなどをさまようのもまた楽しい。狭い路地を通り抜けているうちに意外な場所に到達していたりする。学生時代、家から通えない距離ではなかったが、一時期、京都の街に下宿していた。夕食の後など、真っ直ぐに下宿には帰らず、できるだけ初めての道を見つけて通ってみたりした。定期試験の頃ともなると、かえって無性に当てもなく歩き回ってみたくなったものである。H. G. ウェルズの「くぐり戸の中」のように、東山の麓の土塀のたたずまいの中に、ひょっこりと素敵なくぐり戸が現れそうな気がした。
旅行でも、ともかく私は歩くのが好きである。列車の乗り換えのため長時間を駅で過ごさなければならなくなることも多い。そのような時は、まず外へ歩きに行く。各地それぞれにその土地独特の「におい」があり、自分の足で歩けばそれを感じることができる!とある先達に教わった。私はあまり鼻が効かないが「におい」は嗅覚そのものではなく、その土地ならではの種々の特徴を意味する言葉であると解釈している。観光地を見て歩くのではなく、何気ない自然の景色やそこに住む人の暮らしの一端に接する旅を心掛けている。
(追記)H. G. ウェルズの「くぐり戸の中」は、原題 "The Door in the Wall" で、他に「塀にある扉」「白壁の緑の扉」「塀とその扉」「くぐり戸」等の邦題で訳されている。