この「成せば成ること成らぬこと」は、名古屋工業大学の「N.I.T. NEWS 学園だより」1999年2月号に掲載されたもので、学生を主たる読者として書いたものである。
40日間毎日続けて腕立て伏せをやった。何回できたかを記録してグラフを作るのが中学1年の夏休みの宿題であった。確か最初は13、4回がやっとであったのが、ツクツクボウシが夏休みの終わりを告げる頃には、その3倍近くも出来るようになっていたと記憶する。腕や胸の筋肉が痛くなって前日の記録よりも悪いといった日々が何日か続くこともあった。しかしその苦しい時期を過ぎると、また記録が伸びていく。人間の能力はかくあるかと実感した次第で、この宿題を課した体育の先生には頭が下がる。以後もこれに勝る宿題には出会っていない。
大学1年で奇術のサークルに入って、手練を要する手品を練習した。初めは手先が思うように動かないが、根気よく練習しているうちにスムーズな動作が身についてくる。それまでに百貨店の奇術コーナーで種を買っては出来ずに諦めていたものがいくつかあったが、要はちゃんと練習を続けなかったからに過ぎない。手先の器用な特殊な人が手品をやると一般には思われているが、実は手品が好きなばかりに性懲りもなく続けているだけという場合も多い。自動車の運転でもギターなどの楽器の演奏でも、最初は思うように体が動かないのが当たり前である。教習所で初めて車を動かしてみて、これはとても難しくて自分には合ってないとやめる人はまずいない。このあたりが奇術との違いであって、少数の「手品バカ」以外のまともな人種は、たかが奇術の練習に繰り返し時間を費やす愚を犯さない。
いざというとき人は思いもかけぬ力を発揮することができて「火事場の馬鹿力」として知られている。無我夢中のそのときは運べたのに、後からでは重過ぎてとても動かせないという。潜在的にはかなりの能力がそなわっており、いかにしてそれを引き出すかという自己コントロールの問題であろう。
春を重ねるたびにひどくなる花粉症に悩まされ、鼻づまりで困っていた頃のことである。学会の座長として発表の進行を任されていた。聞き苦しい鼻声でしゃべるのは嫌だなと思っていると、発言しようとするその数秒前にすっと鼻づまりが消えた。発表者の紹介を終えるとすぐまた鼻はつまり始め、次の出番まではつまりっぱなしで、マイクに向かっている間だけ鼻は快調である。これを繰り返しているうちに自分の担当は無事終わった。体を動かして全身の血行を良くすると鼻粘膜の充血がとれて鼻がすっととおることはわかっていたので、座ったままでも精神の集中次第で鼻周辺の血行促進が可能なはずと思った。しかし、自己暗示をかける等の努力や工夫はむなしく、座長席での現象の再現には至らなかった。緊迫の火事場からはほど遠いささやかな経験ながら、自分の意にかなうように体をコントロールすることの困難さを思い知らされた。
なお花粉アレルギーについては、7年ほど前に始めた週1回の1時間以上のジョギングが功を奏したか、年々軽快して今ではほとんど気にならず、その上めったに風邪をひかなくなった等のおまけもついてきた。川縁や田圃の間を走りながら、中学時代の腕立て伏せなど思い出して、来るべきハーフマラソン大会での記録の伸びを期待している。
この問題は難しくて分かりませんと解説を要求する相手に、すぐには答えを与えず「どこまでは分かってて、どこが分からないの」と説明を促す。しばらく考え直して、あっわかりましたという返事がかえってくる。学生時代、受験生の家庭教師をしていてときおり経験したことである。躍進をとげたある会社の技術系トップによれば、できそうにないことでも何故できないのかその原因、理由を明らかにすればもうできたようなものだとのことである。難しそうでとても手に負えないとの姿勢からは解決はほど遠いが、たとえ実現が困難そうでも希望をもってきちんと取り組めば光明は見えてくる。
我が家で13年を過ごした愛犬が世を去る2、3日前のことである。病弊して庭でごろごろしていたのが、何を思い立ったかよろよろとした足取りで歩き始めた。見るに見かねて制止を試みたが、途中何度も座り込みながらもついに近所一周を果たした姿は、静かなる修羅場とでもいうべきか、まさに動物の生き様のひとつを見せつけられた。ほとんど動けないかに見える状況でも、気力次第でかなりのことができることを示している。
やる気になれば何でもできて、一見できそうにないことでも実はできる能力を持っており、ただそれを発揮できていないだけのことではないか。そう思わせるような話を並べてみたが、不可能なことはやはり不可能で、無理は禁物である。このあたりの見極めこそ実は難しく、それを誤れば身体を痛めたり、心を病んだりすることにもなる。死んだ気になれば何でもできるとの言は、確かにある真実をついてはいるが、そう軽々しく行なえるものではない。
力を振り絞ったあと死んでいった犬については、次のように考えている。生きるということは様々な状況に対応しつつ安定性を保っていくことであって、常にそのための備えが必要である。最早、将来のための余裕、余力を顧慮しなくてよい状況に至ったとき、それらの備蓄はすべて現在の活動に使うことができる。これは本能的に死期を悟った動物にして初めて可能なことかもしれない。生き続けていくためには、極限近くまで消耗し切ってしまうことは許されない。限界からはほど遠いふだんの生活においても、深酒や夜ふかしなど体に負担を与えたあとは、大事に至らぬ前に備蓄の回復を図っておこう。
体は酷使し過ぎないように防御機構が働いており、火事に遭遇する等の緊急事態ではその防御機構が解除されて、ふだんは不可能なことも可能となるのではなかろうか。この安全装置は自分の意志で簡単にはコントロールできない仕組みになっていて、オリンピックのメダリストやプロ選手は、きっとそのあたりの制御も含めてかなり極限に近いところで勝負しているのに違いない。一流プロたらぬ常人に対して、いたずらに精神力や根性のみを強調して過度の頑張りを要求することは避けるべきであろう。
語学でもスポーツでも「継続は力なり」で、続けていると上達する。しかし記録が伸び続けるということはあり得ず、その上限は人それぞれがもって生まれた資質に支配される。週1回のジョギングではもの足りないと毎日ランニングに精進したとしても、現在の実力からしてフルマラソンを4時間で走れる可能性は小さく、その前に体をこわすのが落ちであろう。各人が、自分にとって有意義と信ずるところを、その分に応じて励めばよいのである。
まったく経験のない新しい事をやり始めた頃のその人の実力は、その経験時間数に寄ってほぼ決まる。教習所での車の運転がいい例であろう。ゲレンデに何日通ったかで、どの程度スキーが滑れるかがほぼ読めるに違いない。ましてや、全然やったことがないのと少しでも経験があるのとでは大違いである。趣味やスポーツに限らず、語学でもコンピューターでもやっておけばそれだけのことはあるはずである。英語はもう何年もやってきて実力はほぼ頭打ちと諦めている人でも、会話やヒヤリングなら少なくとも始めのうちは目に見える進歩が見込めそうだ。
経験の有無が重要なら、できるだけ色々なものに手を出しておくことも、自分の総合力、価値を高めるひとつの有効な手だてとなる。現在、フランス語とロシア語の化学の論文が辞書と首っ引きながらも何とかかろうじて読めているのは、学生時代の半年間の受講のお陰である。初歩のところだけでもやっておいたことのプラスは大きい。英語、ドイツ語とちがって選択科目だったため、前期だけ出て後期はやめてしまったことに若干の悔いは残っている。
20年前、筆者がUCSD(カリフォルニア大サンディエゴ校)での2年間を終えて帰国の際の研究室メンバーからの寄せ書きにあった図をもとにした。
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