数年前より、様々な機会を見つけては、「カタカナ一辺倒の生物名への漢字付記を!」という提案をしてきました。東海大学出版会の月刊「望星」誌が2018 年6月号で「植物名には漢字併記を!」という特集を組むにあたり、幸いにも筆者の主張を述べたウェブページが編集部の目にとまりました。京都祇園の八坂神社近くの漢字ミュージアムの喫茶でインタビューを受け、ここに紹介する如く「漢字併記への壁は厚い!」と題した7ページの記事が掲載されました。これを契機に、サブタイトルのごとく「ごまめの歯ぎしり」状態であった筆者の案が、少しでも多くの方々に届くようになっていくことを期待しています。

「望星」2018 年 6月号 pp35〜41

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 上記の「望星」誌へのインタビュー記事の縁で訪れた漢字博物館ミュージアムで心に響いたのが戦後の日本の漢字の危機を記したパネルであった。生物名の記述に漢字が軽視・無視されている現状を、より広い視点から見つめて書いたのが俳句誌に寄稿した下記の一文である。

漢字文化を軽視する専門用語

川 井 正 雄

 京都、八坂神社下に「漢字ミュージアム」を訪れたが、半世紀以上を理系畑で過ごした筆者にとって、まさに目から鱗の新鮮な世界が広がっていた。様々な角度からの漢字に関わる展示や解説の中で最も心に響いたのが、七十余年前に我が国が経験した漢字絶滅の危機である。日本語をすべてローマ字で書くこととするというのが敗戦後の連合国占領下でのアメリカ教育使節団の提案であった。漢字のせいで日本人の識字率が低いという証拠を得るために一万七千人弱の国民を対象に漢字の読み書き能力試験が実施された。結果は西洋の先進国に比し非常に優秀な成績であった。漢字廃止の根拠は失われローマ字化は頓挫、危機を脱して現在の日本語がある。

 文字通り中国で生まれた漢字であるが、本家では極端に簡略化されてしまい、朝鮮半島では大幅に削減あるいは廃止された。日本で漢字が絶滅を免れたのは、文明開化後の教育制度と日本人の真面目さの功と言えよう。先人の志を受け継ぎ、漢字はある程度の安定した位置を確保しつつ今日に至っている。漢字の数の多さや極度に複雑な漢字の存在を思えば、教育漢字の制定や当用漢字表、常用漢字表などによる適度の制限も致し方ないと言えよう。さいわい文学作品の類では旧字体の漢字や旧仮名遣いなども含め作者の自由な選択に任せられている。

 日常的には大きな違和感や不都合を感じることの少ない現在の漢字事情の中で、筆者が問題としたいのは専門分野での用語設定である。本稿では、漢字文化の伝統の軽視につながるいくつかの例を取り上げ、その改善のための方策、試案などを述べてみることとする。

 まずは生物分野であるが、生物種の名前はカタカナを用いるのが決まりとなっている。学術書に限らず一般的にも生物名のカタカナ表記が普及しているようである。しかし、表音文字のみの記述は誤解を生じやすい。干潟に居るハクセンシオマネキという蟹のハクセンは白線と思われがちであるが、片方の大きい鋏脚を振り上げる様子を扇に見立てたのが名前の由来である。白扇潮招きと漢字で書かれれば誤解の余地はない。コウヨウザンの文字からは動物か植物かの判別も困難で、広葉杉という漢字を思い浮かべることのできる人は稀であろう。日本語には同音異義語が多く、キ(黄、木)、チョウ(蝶、鳥)、ナミ(波、並)、ヒ(日、火、緋)など、カナ表記では区別がつかない。カタカナの羅列では複合語の切れ目が分かりにくいのも表音文字による表記の欠点である。シャジクモは蜘蛛の仲間ではなく、水生植物の車軸藻である。高山植物のアオジクスノキは楠の仲間ではなく、酢の木の仲間の青軸酢の木である。

 古くから言い習わされてきた呼び名であれ、生物学者による新しい命名であれ、生物名にはその生物の性質や特徴、人々とその生物の関わりなど、その生物種についての何らかの情報が含まれている。表意文字である漢字を用いれば有効に伝わるはずの、名前に込められた命名者の思いやその生物にまつわる伝承を十分に伝えることができないのが、表音文字の致命的な欠点である。

 文中で生物名が容易に認識できるのがカナ書きの長所であり、また「人」ではなく「ヒト」と書けば生物学的な存在であることが明示される。生物名のカタカナ表記は十分に定着しているので、その長所を維持しつつ表音文字に必然的に伴う欠点を補う方法として、必要に応じて表意文字である漢字を付記することを提案したい。デンジソウ(田字草)、ワオキツネザル(輪尾狐猿)のような括弧書きが分かりやすく無難であろう。

 天文分野では、星座の名前に漢字を用いず、仮名書きが標準とのことである。先の提案に従って意味がとりにくいものには括弧書きで漢字を付記し、いて座(射手座)、がか座(画架座)、ほ座(帆座)、ろ座(炉座)のような記述をすれば有効に情報を伝えることができる。

 化学では漢字の化学名にカタカナが混じるが、常用漢字ではないものをカナ書きとする場合が多い。ケイ素(珪素)、ヒ素(砒素)、リン酸(燐酸)、ギ酸(蟻酸)、ケイ皮酸(桂皮酸)、ショウノウ(樟脳)、タンパク質(蛋白質)などとするのがよいと思う。蒸留、沈殿などの用語には同音異義の常用漢字が含まれるが、漢字本来の意味を尊重して専門書では「溜」「澱」を使いたい。

 人の名前には、常用漢字に含まれないものが人名用漢字として認められている。同様に、例えば化学用漢字などの分類を設けて、それぞれの分野で専門用漢字を制定して使用するというのも有効な策ではなかろうか。

 パソコン等の電子機器の発達の恩恵で複雑な文字を手書きする必要性が低下した。表示される選択肢の中から正しい漢字を選べれば十分という場合も多い。読める字は書けねばならないという長年の教育界の常識から脱し、時代に即した漢字制限の緩和も期待したい。

 漢字は質感、情感をもって私たちの知、情、五感に囁きかける。「木」は象形で、会意を更に併せた「森林」は瞼に情景を映し出す。現在の日本語表記は豊かでアルファベットに各種記号も加わり華やかである。

     百千鳥にてローマ字とひらがなと  島春

一層多彩な展開を見せる日本語の中で、悠久の歴史を引き継ぐ漢字が末長く健やかならんことを心より望む。

[追記] 漢字ミュージアム訪問は、「植物名には漢字併記を!」を特集した月刊「望星」誌による同館喫茶室でのインタビューがきっかけであった。「カタカナ一辺倒の生物名に漢字付記を」という筆者の年来の主張は同誌2018年6月号に7ページの記事として掲載された。

(「春星」2020年1月号 )

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 「本日朝刊1面最下段最右翼における『望星』の広告を見ました。大きな文字で『植物名には漢字付記を!』とあったので、『あれっ』と思い内容に眼をやったらお名前を発見しました。主張が広がるということはいいことですね。」とのメールが届きました。生物名への漢字付記を!という私の年来の主張を知る小田原近郊の知人からでした。私の提案がさらに少しでも多くの方々に届くようになっていくことを心から期待しています。

 左は、件の毎日新聞5月15日朝刊(東京版)の第1面のコピーです。