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< 松本島春さんのこと >

 文芸誌とは別世界の住人であった私が俳句雑誌「春星」に延べ7年3ヶ月にわたって計75作のエッセーを寄稿した。半世紀を超えて句作に縁の無かった私の文が俳句雑誌に掲載されることになったのは、編集主幹の松本島春さんとの私の小学生時代よりの縁による。島春さんより、理系の立場から何か一文を!とのお勧めを受けたのが平成22年 67歳のことで、1、2作のつもりで書いてみたのが思いもかけず長続きした。生者必滅 会者定離は世の定め、生物学の掟であり、92歳の島春さんは令和5年6月に天国へ旅立たれた。底知れぬ悲しみの中で、70余年に亘るご交誼の始まりとなった濃密な6年間の思い出を辿りつつ綴った追悼文「兄また友また師の歯科医大生との六年間」は「春星」の終刊号に掲載された。


兄また友また師の歯科医大生との六年間

川井正雄   

 「三原の松本正氣氏の長男、島春さんが今度大阪歯科大学に入学のための下宿をお世話して頂きたい」という旨の葉書を母かすみが句友より受け取ったのが昭和二十五年春の彼岸過ぎである。大学からは京阪電車で駅二つ離れた旧の京街道沿いの枚方の下宿で学生生活を始めた島春さんは、数軒隔てた我が家に頻繁に顔を出されるようになって直ぐに家族ぐるみのお付き合いとなった。小学二年生だった私も島春さんの下宿に出入りしたが、やがて下宿を引き払って四人家族の我が家の二階に越して来られ、狭い家での五人暮らしが始まった。

 七歳上の兄が居たが、私は十一歳離れた島春さんと同じ部屋で寝起きして実の兄のごとく慕った。大学生と低学年の小学生とが、友達同士のように淀川やその支流の天野川の土手などをよく散歩した。私は感化されて広島カープのファンになり、相撲では吉葉山を応援し、また囲碁の手ほどきも受けた。昆虫や切手の趣味は本物の兄から受け継いだが、人格形成を含む成長期の諸々に島春さんの影響は計り知れない。私が不用意に他人の身体的欠点などを口にすると厳しく叱られた。家庭教師よろしく試験の前日には予想問題を作ってもらったし、普段の会話から音楽や文学の素養も少しは身についた。弟の男児さんか文武さんが使われていたハーモニカを譲り受けたのは有難く嬉しかった。

 学生を対象にした若々しい句会を作りたいとの島春さんの希望を受けて母は中井吟香氏らに協力を求めた。「枚方で句会を作るのは木に依って魚を求めるようなもの」との懸念に反し、島春さんが来られて半年も経ずして枚方句会が発足した。若くはない方々も含めた十数名の集まりの隅っこに、小学二年の私も大人しく座っていた。吟行にも加わって、いつからか私も真似事の俳句を少しは作るようになっていた。

 数え切れぬ思い出を残しつつ月日は流れて昭和三〇年、私は中学生となり、歯科大学を卒業した島春さんは大阪市内の大学病院でのインターン生活となった。毎年、夏には二人の兄が一人に減って寂しい思いの私であったが、歯医者さん修行の最後のこの年は夏休みも帰省されなかった。暑い日であったが島春さんと二人で京阪電車の支線の終点私市(きさいち)駅から磐船神社へと天野川沿いに上流へ向かった。何度か昆虫採集の目的で来ていた私は、あそこにはカブトムシが居るよと川縁の木立を指し示し、美形の雄一匹を手にして戻った。島春さんは立派な角を眺めつつも「実際にカブトムシが木に居るところを見たかったのに」とご不満! 再び草叢を踏みわけて件の木までご案内、何匹か残っていたのを得心がいくまで観察して頂いた。色々と教えてもらい未知の経験をさせてもらうのが常の二人の関係が、この日ばかりは立場が逆転した稀有な展開として心に刻まれている。

    カブトの樹ともに求めし日は彼方

 半年余り後に一家でこの近くを訪ねたことが、母の春星誌への寄稿「遅桜」に記されている。「島春さんと共に在る最後の春の思い出に獅子窟寺を訪ねたのは、交野(かたの)の桜も終に近い四月末のことであった。(中略)『もう一生、来ることは無いやらうなあ』と島春さんが洩らした一言が、ほろ苦く私の心を衝いた。(中略)それから数日後、島春さんは六年間の遊学に終止符を打って、目出度く故郷の三原に帰って行かれたのである。(後略)。」

 時は流れ、もう二度と島春さんに会えることは無い…私の心に空いた深い穴が消える日は来るのであろうか?

  • 掲載:「春星」令和五年(第七十八巻)九月号(終刊号)(通巻九一一号)

  •  上記の追悼文に対して、下記のごとく態々1ページを割いて島春さんと私の母や私自身との縁の背景の紹介が掲載された。終刊号の刊行にご尽力をされていた佳世子様、松本皎様のご高配に心より感謝する。

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