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「手彫切手の顔料と明治人の進取性」  荒木修喜

荒川ニュース No. 358 (2012年7月号) 

 わが国に郵便制度が創設されたのは、いまだ維新の混乱が落ち着かない明治4年(1871年)春のことであった。明治新政府は社会のあらゆる制度を西洋の先進国に倣って改革しようとした。江戸時代の飛脚制度もそのひとつであり、庶民でも安価で迅速・確実に手紙をやりとりできる近代的な郵便制度がこの年に創始されたのである。このとき発行されたわが国初の郵便切手が手彫切手である。西洋の近代的な印刷技術がもたらされる前のことで、旧来の手彫り銅版画の手法を使って製造された。切手の印面の図柄を一枚一枚銅板に手彫りで彫刻して数十万枚の切手を印刷し、郵便開業に備えたのである。印刷原版を手彫りによって作成したため彫り間違いや彫り忘れもあり、後世の切手収集家に尽きぬ楽しみを与えているが、当代一流の職人が持てる技術を最大限に発揮して造った手彫切手は、美しい芸術品であり貴重な文化財でもある(図は最初の手彫切手4種の内の一つ、竜200文切手)。

 手彫切手に魅せられた人達によって、これまで手彫切手はその製造法から使用状況にわたるまであらゆる面から研究されてきた。しかし不思議なことに、手彫切手の印刷に使用されたインキの成分についてはこれまで系統的な研究はされてこなかった。そこで、私たちは数年前から蛍光X線、赤外およびラマン分光法などの非破壊分析手段によってインキ中の顔料の分析を始めた。対象が貴重な文化財であるので非破壊分析は必須の条件である。その結果、最初の手彫切手の印刷に使用された青色顔料は紺青(ベルリンブルー、Fe4[Fe(CN)6]3 )であることが確認できた。この顔料は1704年に当時のプロシアで合成された合成顔料である。すでに江戸時代にわが国に輸入され北斎の浮世絵にも使用された顔料で、その鮮やかな青色は「ベロ藍」として当時の人々に大いにもてはやされたという。従って、この顔料が明治4年発行の手彫切手に使用されたのは当然の成り行きであるが、わずか2年後の明治6年発行の手彫切手には新しい青色顔料が使用されている。群青(ウルトラマリン、Na8–10Al6Si6O24S2–4)である。この顔料も合成顔料であり、無機化合物叢書の編者として知られるグメリンによって1828年に開発されたものである。大蔵省印刷局の記録によると、明治政府は明治5年にお雇い外国人であるトーマス・アンチセル(米国人)を雇い入れ、印刷インキの改良にあたらせた結果、新しい顔料の製造に成功したとの記述があるのでこの群青がそれにあたる可能性が大きい。

 手彫切手の赤色顔料は、明治4年の切手発行当初こそ伝統的な鉛丹(Pb3O4)と朱(HgS)の混合顔料が用いられた(図)が、青色顔料と同様に明治6年発行の手彫切手には新しい赤色顔料が使用されていることがわかった。構造はいまだ不明であるが有機顔料と考えられる。この新顔料もアンチセルの指導によって製造されたものであろう。このほかにも明治6年以後の手彫切手のインキには、黄色顔料として黄鉛(クロム酸鉛、PbCrO4)、緑色顔料としてエメラルド緑(アセト亜ヒ酸銅、Cu(OAc)2・3Cu(AsO2)2)など19世紀初頭に合成法が発見された顔料がいち早く使用されていることがわかった。いずれも当時の日本人にとっては西洋からもたらされた最先端材料である。

 明治政府が高給で欧米の学者や技術者を招聘し、西洋の進んだ文化や技術の吸収に努めた進取性は良く知られているが、手彫切手のインキ中の顔料の変遷からもそれがうかがわれる。その一方で、水銀、鉛、ヒ素、6価クロムなど毒性の強い元素が切手の印刷インキにふんだんに使用されていることは、当時と現在の健康や環境に対する意識の差を如実に示すものであり興味深い。

「荒川ニュース」No. 358 (2012年7月号)より

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