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「 さ ま ざ ま な 話 題 」
 

昭和52年の枚方(米国人の目に映った我が故郷)

 昭和47年、私は生まれ育った大阪の枚方市を後に東京の町田市に移り、せっかく新築した2階建てで暮らした期間は短く、空き家となってしまいました。その後、短期間でしたが、来日した米国の化学者の一家にその家を使っていただいたことがあります。
 一家は大学教授、奥様、お嬢さんの3人でしたが、私は一度もお会いしたことがありません。来日の時期が、ちょうど私がサンディエゴのカリフォルニア大学(UCSD)への2年間の研究留学への出立と重なっていたからです。お父様の専門である化学(ケミストリー)に因んでお嬢さんのお名前がケミーであるということがわずかに印象に残っています。
 隣棟に住む私の両親がご一家をお世話したのですが、最近になって、母が残しておいた昔の「ひらかた新聞」の切り抜きのコピーが見つかりました。当時のことを奥様が書かれた文の翻訳が掲載されていて、読んでいると古き良き時代の日本の思い出が懐かしく蘇ってきますので、以下に紹介します。



  

   ひらかた新聞(昭和53年2月15日)

〝いいまち枚方〟の印象 

                     エデイ・バンダイク(米国)

 緑の丘を背に、古い伝統を残す田園の集落と新しい住宅団地が進出し、〝開発〟のコントラストを描く枚方市釈尊寺町 — 。そこの旧家・川井謙治郎氏宅に約三か月滞在、自然の風土にとけこんだ古い民家の〝美〟に魅せられ、家族的に暮したアメリカ人一家(大学教授)の目に映った〝いいまち枚方〟の印象。だが、失われゆく東洋的郷愁に対する喜びと落胆 — そして、あたたかい友情(感情)で結ばれた人々の絆を「日本に就いての印象記」で興味深く述べている……。

その〝人情〟と郷愁・・・  村祭りや運動会 美しい思い出に

 こうして筆をとったのは、日本の人々全体とその中の幾人かの日本人に、個人としてお礼を申し述べたいがためです。
 ここでは、アメリカ人の一家という立場から、昭和五十二年の八月末から十一月末までの三カ月を人々とともに過ごした間に感じたこと、経験したこと、そして人々との出会いについて述べてみようと思います。
 一家の名前は「ヴァン・ダイク」と言い、父親の「チャールス」母親の「エディ」それから娘で五歳の「ケミー」からなっています。
 父親は米国・ペンシルベニア州。ピッツバーグ・カーネギー・メロン大学の教授をしております。
 日本に滞在することは予期せぬ出来事でありました。もとはと言えば、この一年間の有給休暇はドイツでずっと過ごすということになっていました。それが、いざ出発という時になって三カ月間は日本の京都大学で過ごす事に変わったのでした。そうして日本を訪れた結果、沢山の人々と親交を結ぶことができ、日本の生活様式についてもより深く理解することもでき、更に日本を愛するようにもなりました。
 私達が日本に着いたのは、八月ももう終わる頃で、気候は大変に暑く湿度も相当なものでした。これから過ごす家とそこの住み心地が、最初の一週間を京都市内のホテルで過ごすころ心配になってきました。併しながら京都大学のクマダ、イシカワ両教授の御厚意により住居が見つかったのです。
 京都中心部に近いアパートか、市内から電車で一時間のところにあるお宅かを選ぶことになりました。私達は個人のお宅をお借りすることにしたのですがその決断は、間違ってはいませんでした。

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土塀に囲まれた古い民家に驚く

 そこで暮してみて一番驚いたことというのは、私達が他の大勢の旅行者のように、日本の文化社会の周りで暮らすのではなく、典型的な日本人に混ざって暮らしているということでした。
 この社会では私達が唯一の外国人のようでした。近所の子供達に出合うと、その子等はじっと見てそれからクスクスと笑ったものでした。隣の家屋にカワイ夫妻が住んで居られました。お住いは特徴ある土塀で囲まれた二百年ほど昔に建てられた日本家屋でした。二百年というこの歳月は、私共の米国が、この家と丁度同じだけ古いということを考えますと私達には大変なショックでした。
 カワイ夫妻の歓迎はすぐさま私達の心にしみ渡りまして違和感などというものは全く消えてしまいました。お二人は最初から「ケミーちゃん」に理解を示され、お気に入りのようでした。この子の両親であります私達にとって、このことは私達がこの新しい文化社会にすばやく、そうして無事に融けこんで行く上で大切なことだったと思っております。
 それから何日も経たない頃、私達は近所の人達の訪問を受け「この村落の行事に加わりましょう」と励ましをうけました。そうしてこの家のすぐ裏手にある神社(釈尊寺)での村祭りに参加しました。また稲刈りやそれを束ねるお手伝いをしましたし、米がどういう具合に脱穀されていくかも見ました。
 また毎日の食料品を数多くの市場に買い求めに出かけました。そこでは商人が個々に家族を使って自分の店を持って商売をしていました。スーパーとは異って市場が「個人商店の寄合い」だと言うことのようです。
 それから私達はケミーを「うみのほし幼稚園」に入れました。枚方市にある託児所付幼稚園に入れたということは私達三人にとっては、すばらしい体験でした。ここで私達が日本語を全く知らなかったということを思い出して頂きたいのです。
 日本語と漢字は私達には大そう複雑に見えました。しかしこの言語の障壁があっても、うみのほし幼稚園のキタハラ先生がケミーを編入させ、そうして愛情を注いで下さるのには何の差し障りもありませんでした。ケミーにとって幼稚園での最初の幾日かは何事も分からないらしく、両親でこの子がうまく融け込めるよう手助けをするようにと幼稚園の方からも要請をうけました。

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幼稚園の躾と娘のお友だち…

 私と主人がうみのほし幼稚園で先ず感じたことは、私共の国の標準と比べてみて規模が大きくて子供達の数がずっと多いということでした。このことが日本の殆どの学校の典型的な事情であっても、大事なことは子供の一人一人が受ける世話であり気遣いでありそうして躾に変わりはないことだろうと思います。ケミーは私達が当地へ到着してから数週間後にあった運動会の練習に始めから加わりました。
 これは私達三人にとって新しい経験でした。それにしてもこんなに幼い子供達が競争で競い合ったり、きちんと遊技などするのを見ているのは奇妙で、おかしくさえありました。キタハラ先生が私達を来賓席に座るようにと招いて下さった時には幼稚園の「偉い人」になったような気がしました。
 ケミー以外の全員が、寸分違わない正確さで遊技を立派にやってのけたのには、心暖まる思いがしました。それでも両親はケミーちゃんのことをよく知っていましたし、言葉の問題も心得ていましたので、とにかくこの子を褒めてやりました。このことがあって以来、私達は先生方や同級生達が大変好きになりましたし、お別れを言うのが辛くなりました。
 この人達は多くの日本の美しい思い出を私に与えて下さいました。
 私達は次にどんなことを日常の暮らしの中で、印象に残るものと言えばよいのでしょうか。
 私達が気付いたことの一つに、日本人というのは大変に能率のよい「人運び」の名人だというのがあります。多数の郊外からの通勤者(夫のチャールスもその一人です)は、目的地との往来を主に能率の良い鉄道便で運ばれるのです。しかし、バスの便は少なくとも京都市内では、ややうまく働いていなかったようであります。
 子供達を大変に可愛がるということは、日本人の目立った特質の用で毎日の様に見受けられました。日本の子供達は混雑した電車の中では、男の人、女の人、十代の若者から席をゆずってもらうのです。子供達はどこへ行くのも両親と一緒でお行儀よくしています。親が子供達と一緒に遊んでいるところがいつも見受けられました。親がこうして子供達に愛着を示すことと、愛情を与えることでその子は六歳頃になると自信を持った性格を示すようになるのです。私は今、日本の子供達が凡そ六歳で一応の成熟をし、自尊心を身につけると申しましたが私達は実際、小さな子供達が一人で電車に乗っていたり、自分のお金で一人でお菓子を買ったり、車や人のよく通る道路で自転車に乗ったりしているのを見たことがあります。私達は両親や、先生や、他の大人達を敬っているのに気付き、そうして感心しました。

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スリや泥棒のいない電車とまち

 このように他人達を気遣うことが、多分日本を訪れる外国人が是非とも知らねばならない日本の犯罪発生率の低さの理由の一つになっているだろうと思うのです。日本に最初に着いた日から、私達はいつでもどこでも絶対に安全なんだと感じました。混雑した電車の中である程度押し合ったりぶつかり合ったりする中でさえも、スリの心配は無用でした。また私達はどの食料品店でも無防備のお金を入れておくカゴや、放ったらかしの自転車(しかもしばしば食料品が山と積んであるのです)には最後まで驚きは止みませんでした。
 そこでの買物は米国で慣れ親しんでいるやり方とは全く違っていました。(小さな食料品店はずいぶん前から合衆国の殆どの地方では次第に無くなりつつあります。)それでも私達が品物の質と値を比べながら店々を転々と廻ることはワクワクするようなことでした。
 しかしながら度々どの日にどの店が閉まっているということをすっかり忘れて、何を買おうかなどという計画に熱中していたりする日に度々会いました。すぐに私達はここにはすべての店に共通の日曜、祝日以外の「休みの日」というものが無いことを知りました。
 初めの頃はマグロという生の赤い魚肉や、他のごちそうでも悩まされました。それでも次第に多くの日本の食べ物を好んで食べるようになりました。その中にはあのマグロもハマチも入っていました。
 私は冷凍してある果物、フルーツジュース(冷凍)野菜や食後に食べる冷凍果物に慣れ親しんでいましたが、そういう物の種類が少ないのに驚きました。併しながらきれいで新鮮な野菜、果物は冷凍のそういう類の不足を補って余りありました。私達にもの珍しく思わせたものにナシ、小さな紫色の種無しブドウ、カキ、そうした種無しのミカンがあります。
 肉片は肉らしくない(うすく切ったもので)肉は米国でよりもずっと高価でした。魚の種類はアメリカ人の訪問者には、くるものくるもの覚えていてもきりが無い程多いのです。

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野菜、果物は新鮮だが肉は高い

 軽食の類(インスタント食品のことを言うのだと思います)が売り場を占める広さと言ったら、私達が米国で慣れているのとは比べものにならない位の広さです。アメリカ流即席の軽食、ハンバーガーの立売りしているところを見つけると、喜びと落胆の両方の気持が同じに起こりました。喜びというのはそのハンバーガーの売り場が郷愁を感じさせてくれたからで、落胆はそこに東洋的な魅力と美しさが無いからでした。
 最後に、日本の人々のあたたかいもてなしについて感じたことはとても表現しきれるものではないと言わなければなりません。この私共のうけた感じというものは友情という感情的な絆で強く結び合わされているものだからです。
 日本のことを思う時、私達の脳裏に浮かぶのはイシカワ夫妻のいこと、カワイ夫妻のこと、スグリ一家のこと、ヨシオカ一家のこと、キタハラ先生、そうしてうものほしのことなのです。そういう人達が(うち何人かのお名前は記憶にありませんが)自分のためでなく、私達のために私達の必要とする時に何度も様々な方法で好意を示して下さいました。そういう人達こそが、日本人とはどういう人かということを私どもに教えて下さったのです。 (翻訳=富樫史郎・枚方市香里丘)

 写真: 日本の〝美〟を残す田園の集落と、新しい団地進出で〝開発〟のコントラストを描く枚方の釈尊寺付近

 写真: 釈尊寺の民家で暮したエディさん一家(川井氏宅で)                  ***

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皇紀2602年の卒業アルバム

 高校時代の友人のご父君は大阪大学の名誉教授であるが、その友人がかつてのお家を処分するということで、古い本などに興味があるなら、よろしければどうぞ!と声をかけてくれた。私の学生時代に発行された理科年表や昔の教科書など数点をいただくことにしたが、さらに貫禄がある装幀の分厚い本が目にとまった 。開いてみるとアルバムであった。表紙の左上に「T」の字、右下には数字の「2602」だけがあって、背表紙は髭文字のドイツ語で「Erinnerung an der Universitaet」、裏表紙は大学マークである(写真左)。最初のページの中央部に写真があって、上に大学マーク、下に「大阪帝國大學 工學部機械工學科」と記されている。写真は、計算尺、学会誌(?)、洋書、花瓶とともに、灰皿の煙草から煙が立ち昇っていて、いかにも時代的なアカデミックな雰囲気が感じられる。なお、この書物で文字と呼べるものは、ほかには、最後に「NISHIMURA ABENOBASHI」というロゴ風のマークが印刷されているだけで、すべては写真のページである。このまま廃棄されるべきではない貴重な資料である可能性が高いと思い、これも持ち帰ることとした。

 いつ作製されたかについての手がかりは「2602」であって、神武天皇即位2600年の記念行事が昭和15年に行われており、このアルバムは、昭和17年、すなわち私が生まれた年に作られたものということになる。

 70ページのすべてに写真が糊貼りされていて、背表紙の Erinnerung(追憶、回想)からも卒業記念アルバムの類とみなしてよいであろう。文字の少なさなどから、公式アルバムと呼べるものであるかは疑問であって、卒業生が申し合わせて、写真館にアルバム冊子の作製を依頼し、写真は各自で貼付けたかも知れない。最後のページは学生一人だけの大きな顔写真なので、このページだけが各人それぞれ自分の写真を貼り付け、残りのページの全部あるいは大部分は機械工学科の卒業生全員が共通に同じ写真を用いたのではないかと推測される。先ず、正門の写真があって、それに続く写真は多分、当時の阪大の学長、工学部長、機械工学科の学科長、教授たちであろう。そのあとは、大学キャンパス、講義室、実験室や大学の近くで撮影されたものであろうが、すでに戦時中であり、銃を用いての訓練らしきものも写っている(写真右上)。機械科の学生ゆえ実際に戦場に駆り出されることはなかったであろうが、やがてこの地は空襲で完全に焼け野原になった。

 戦争を感じさせるのは、銃を持つ学生たちの写真1枚だけではあるが、製作年が皇紀で示されていることから、軍事色が国全体を覆い尽くす悲惨な時代へと突き進みつつあったのであろう。敵性の西暦年の記述がないのは当時としては当然だったのかも知れないが、昭和17年の文字も無いのは異例なのか、それとも、すでにそれが奇異でない時代であったのであろうか。学徒出陣が始まるのはその翌年である。戦争の記憶はまったくないが、自分が戦中生まれであることをあらためて意識させられた。

アルバムのページの一部を紹介

 大学の公式アルバムであるか否かにかかわらず、当時の貴重な写真資料であり、個人で所有しているよりも、適当な施設で保管していただくのが適当であろうと思い、大阪大学総合学術博物館とコンタクトをとった結果、大阪大学アーカイブズに寄贈することとした。

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