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< エッセー with 俳句 : 第2段(ミニ版)>

 俳句雑誌「春星」に4年3ヶ月にわたって寄稿してきましたエッセーを収録したものが「エッセーwith俳句」です。その後1年間の中断ののち、一作の分量を半分にして平成28年1月より寄稿を再開しました。3ヶ月に1回のお休みを入れながら平成30年12月まで3年間続けたのがこの第2段(ミニ版)の24作です。引用した俳句は二十数句ですが自作も3句含まれています。定期的な寄稿はもうお仕舞いですが、また将来に単発の寄稿をさせて頂ければと思っております。(H30.12)

 「切手」(H28.01)  「内と外」(H28.02)  「スカンポ」(H28.04)  「渡し舟」(H28.05)
 「炭素は巡る」(H28.07)  「二酸化炭素」(H28.08) 「鏡の中」(H28.10)
 「ビタミンC」(H28.11)  「餅肌」(H29.01)  「春は名のみの」(H29.03)
 「加齢」(H29.04)  「冬虫夏草」(H29.06)  「顔貌」(H29.07)  「かぐや姫」(H29.09)
 「郵便ポスト」(H29.10)  「温泉」(H29.12)  「マスク」(H30.02)  「土筆」(H30.03)
 「化ける」(H30.05)  「電子」(H30.06)  「雑草」(H30.08)  「山並」(H30.09)
 「想定外」(H30.11)  「リハビリ」(H30.12)  



切 手

川井正雄   

 電子的な情報交換の普及で、葉書や切手の影が薄い。

         旧交に新交もあり年賀状

お付き合いは年に一回の賀状の交換だけという相手も結構多いが、それはそれで年賀葉書の存在価値ではあろう。当たり番号のお年玉葉書で十二支の絵の年賀切手シートを入手するのも楽しい。とは言っても、切手を貼る機会は少なく、使わずじまいになることが多い。

 子供時代、切手の収集が流行っていて乏しいお小遣いの中から古い記念切手や国立公園の切手を購入した。かつての私の同僚は本格的な郵趣家で、幅広い分野での造詣の深さに感心することが多々あったが、その知恵の源に切手がある。歴史、科学、芸術、産業、スポーツ等々、切手の関わる領域はあらゆる分野に広がる。「Something about everything とともにeverything about something を知ることを目指せ」は英国の生物学者ハックスレイの名言であるが、切手に知悉すれば遍く諸分野に語るべき知識を持つことが出来る。切手は教養の宝庫であり、趣味の王者とも言われてきた所以である。

 種々の趣味が人生に彩りを添え、各様に有益である。しかし、実用的な価値もなく余人には面白さも理解し難いようなのが本物の趣味で、稀にその思いを共有する仲間に遭遇する喜びこそ実は趣味の醍醐味かも知れない。

掲載:「春星」平成二十八年(第七十一巻)一月号(通巻八百二十号)

 

内 と 外

川井正雄   

         豆撒の聲こもらせて大戸閉づ   かすみ

 福は内に保ちつつ禍いをなす鬼は外へ排除するのが望ましいのは当然である。家族、集落、市町村、国家などはもとより、趣味の会や運動競技のチームなど結束の強さは様々でも、ともかく先ずは内側が大事である。

 生命の定義の一つが外界との境界の存在で、生物では内と外とがはっきりしている。私たちの場合、身体の内側に侵入した異物は様々な免疫系の働きで排除される。免疫系の異常により自己と非自己の的確な判別が出来ず自身の身体部分が「鬼は内」と攻撃の対象となってしまうのが関節リウマチなどの自己免疫疾患である。

 ご馳走がお腹に一杯の満腹でもそれは未だ「お外」である。口から肛門に至る消化器系は真の体内ではない。ビフテキを食べても牛の蛋白質がそのまま私たちの筋肉となるわけではない。万一、牛肉が直接体内に紛れ込めば、免疫系は異物対策に大騒ぎの異常事態に陥るであろう。摂取した蛋白質は胃腸で消化され、アミノ酸にまで分解されてから腸壁を通って内側に入る。吸収されたアミノ酸は私たち自身の蛋白質を作る原料として用いられて身体の一部となる。しかし、栄養のある物を食べるだけでは丈夫な筋肉は得られない。食事が有効に血となり肉となるには筋トレなどの努力も必要である。

掲載:「春星」平成二十八年(第七十一巻)二月号(通巻八百二十一号) 

 

ス カ ン ポ

川井正雄   

 土筆摘みも蕨摘みも楽しいがすぐには食せない。土手のスカンポをポキッと折り、皮を剥いて口にすると酸味が心地よい。尤も酸っぱさの元である酸味成分には有毒な蓚酸が含まれており食べ過ぎには要注意である。

         すかんぽに塩化ナトリウムを持参  島春

 早春の自然観察会であったが、仲間同士でスカンポとはイタドリ(虎杖)のこと、いや、スイバ(酸葉)なりと意見が分かれた。どちらも酸っぱいし、折る時の感じも似ている。私はイタドリ派であったが、夫婦で見解が異なるケースもあった。帰宅後に検討してスカンポが指す植物は地方によって異なるらしいとの結論に達した。自分が育った地域での呼び名が全国的に通ると思い込んでいる植物図鑑の著者も多いようである。

 土手のすかんぽ…で始まる北原白秋作詞の「すかんぽの咲くころ」は…夏が来た来たドレミファソで終わる。イタドリは夏に白い花を咲かせるが、スイバの方は赤い小花で春である。私がスカンポすなわちイタドリで頭に浮かぶのは早春の土手にすくすく伸びる姿であるが、植物図鑑でイタドリをひくと雌雄異株で雄花や雌花の白い花穂をつけた図版が目に入って戸惑う。虎杖は春の季語、虎杖の花は夏の季語である。同じ言葉でも、人により思い浮かべるものがさまざまに異なる。 

掲載:「春星」平成二十八年(第七十一巻)四月号(通巻八百二十三号)

    ⇒「スカンポ論争」   

 


渡 し 舟

                   川 井 正 雄   

 天王山の中腹から見下ろすと桂川、宇治川、木津川が流れ、向こうは石清水八幡宮の男山である。かつては麓の山崎と対岸側の橋本を渡し舟が結んでいた。三川合流と称されるが、すでに宇治川と木津川は一緒になっていて中州のような草原が桂川を分けている。渡し舟を乗り継いで淀川を渡るので、淀二タ渡しと呼ばれていた。

         風薫る淀二タ渡し指呼の中   かすみ

その渡しには子供の頃に何度か乗ったが、最後は昭和三十七年、大学二年生の春であった。友人と二人、橋本の船着き場で待っていると通りかかった人に、黙っていても駄目だよと教えられた。川に向かって大声で呼ぶと船頭が現われ、舟を漕ぎ出してやってきた。童謡では、村の渡しの船頭さんは六十歳であるが、その船頭も高齢であった。その渡し舟の運行はその年が最後で、昔は二十箇所程あった淀川の渡しも架橋の充実で昭和四十五年にはすべて消えた。上流から十三番目の船着き場があったことを示す十三の地名が大阪市淀川区に残っている。

 水の都大阪には今も八航路を十五隻の渡船が運行、すべて動力船で、艪をしならせて漕ぐ船頭の姿は無い。無料の市営に住民サービスの充実を感じるが、新たに橋を作るより安上がりなだけというクールな見解もある。

(補記)十三の由来は条理制の十三条辺との説もある。

  掲載:「春星」平成二十八年(第七十一巻)五月号(通巻八百二十四号)




炭素は巡る

                   川 井 正 雄  

 新発見元素ニホニウムの話題は我が国の快挙で目出度いが、発見という語はやや不適当で、最近「発見」される新元素はすべて自然界には存在しない。ニホニウムも理化学研究所の加速器で創り出されたものであり、この原子は不安定で五百分の一秒で壊れてしまう。

 酸素、窒素、水素と共に炭素はありふれた安定な元素の一つで、最も安定な炭素化合物が二酸化炭素である。

         大緑陰炭酸ガスを覚えをり     島春

 奥山の巨木から道端の草に至るまで、植物の体の炭素成分はすべて大気中の炭酸ガスすなわち二酸化炭素に由来する。草木は二酸化炭素と水分子を原料にして光合成により糖分を作り上げ自らの体へと組み込んでいる。植物は、動物に食べられたり、家具や衣料になったり、直接燃料として使われたりと様々な運命をたどる。植物体に取り込まれた炭素原子もいつの日か二酸化炭素に戻り、またいずれ光合成に使われる時も来るであろう。

 実は、自然界の炭素原子の中に不安定なものがごく僅かだけ混じっている。壊れて安定な窒素原子になるが、その時にβ線を発する。この放射性原子の数が半分に減ってしまうには数千年を要する。これを利用して古い遺物の年代推定が可能で、例えば放射性炭素原子が半分であれば数千年前の光合成の産物ということである。

掲載:「春星」平成二十八年(第七十一巻)七月号(通巻八百二十六号)




二酸化炭素 

                   川 井 正 雄 

 飛行機の窓から眺めると豊かな森林の広がりが見渡される。我が国はまだまだ緑が多いとほっとする。樹木は地球温暖化ガスの二酸化炭素が変身して蓄積された存在である。森林はまさに二酸化炭素の巨大な倉庫であり、その減少は相当分の地球温暖化ガスの増加につながる。

         満月の森の暗さにこころ置く    島春

 夜間に光合成はなく樹々は静かに呼吸を続けている。生物は有機分子の酸化によって得られるエネルギーを利用して生きており、光合成とは逆に酸素を消費して二酸化炭素を放出する。日が射し込むと樹々は大量の二酸化炭素を吸収して成長する。しかし、寿命が尽きた木は倒れ、白蟻や茸類や微生物により分解されて形を失う。蓄積されていた炭素成分は最終的には二酸化炭素として大気中に戻る。人手の加わらない自然林では、死後も含めた木の一生で二酸化炭素の収支はほぼゼロである。

 化石燃料に頼らないエネルギー源として太陽光発電が脚光を浴びているが、かつての薪や炭は太陽エネルギー利用そのものであった。光電池ならぬ葉緑体での生産物の燃焼では二酸化炭素の収支はゼロとなる。空地にソーラーパネルではなく緑色植物を生育させて石油類に代わる燃料の供給源などに利用は出来ないものか、薪炭利用の現代版として採算のとれる技術の進歩を期待したい。

掲載:「春星」平成二十八年(第七十一巻)八月号(通巻八百二十七号)

追記 】 最後を「・・・採算のとれる技術の進歩を期待したい。」と結んだが、実際は、葉緑体における光の変換効率は、光電池と比較してずっと低い。緑色植物は直接に二酸化炭素を吸収してくれるが、化石燃料の使用を抑えるエネルギー問題として捉えれば、太陽光発電がはるかに有利である。ただし、放置しても勝手に生えて繁る印象の強い草木に対して、太陽光パネルの設置のコストは非常に高い。緑の存在がもたらす環境改善、景観美、心の安らぎなども含め種々の効用は計り知れないほど大きい。

 


鏡の中

                   川 井 正 雄 

 大抵の男性にとって手鏡は必需品でもなく、姿見に映る自分を眺める習慣などもないので、鏡に長時間向かうのは床屋に居るときくらいのものである。

         散髪の鏡右胸赤い羽根     島春

 赤十字の募金の証が左胸にあるが、鏡の中の人物は右胸に着けている。鏡が左右を逆転するのは当然のこととして別に不思議とも思われていない。今ペンを右手に持つ私が北を向いて鏡に面しているとする。ペンは東側で空の手が西側にあるのは鏡の中でも同じである。私の顔が北に後ろ髪は南にあるが、鏡の人物では後頭部が北で顔は南向きである。実物と鏡像で左右は変わらず、鏡の面を境にして前後関係が逆転していることになる。前後が入れ替わった人物では、ペンを持っている手は左手に相当する。左右の反転と捉える方が受け入れやすいが事の本質は鏡の面に対しての前後の反転である。

 小難しい議論はさておいても、鏡の中には異次元の世界があるかのような神秘感が漂う。伊勢神宮の八咫鏡を始めとして鏡を神体とする神社は多い。今のように玩具が豊富でなかった子供時代よく鏡で遊んだ。現の世を離れた夢の世界を鏡の中に見ていたのかも知れない。誰しも鏡にまつわる思い出が胸にあるのではなかろうか。

         母のこといちばん知る鏡に秋来 男児

掲載:「春星」平成二十八年(第七十一巻)十月号(通巻八百二十九号)

    ⇒「鏡は左右を反転するか?」 

 

ビタミンC

                   川 井 正 雄 

 戦後、国鉄に緑とオレンジのツートンカラーの車両が登場した。蜜柑の葉と果実の色と言われれば成る程と素直にその気になれるが、実は色の由来は俗説らしい。

         発色す雲量七の蜜柑山     島春

 色付いた蜜柑は健康を感じさせる。あまり食べ過ぎるとカロテノイド色素が皮膚に沈着して黄色くなり、柑皮症と呼ばれる。肝臓の病気等による黄疸とは無関係で、皮膚の着色自体は無害であるが、何事も過剰は避けるのが賢明であろう。カロテノイドは緑黄色野菜に含まれる成分でビタミンAの原料となるが、蜜柑の顕著な栄養素はビタミンCである。大航海時代、多くの船員の命を奪った壊血病は、寄港してレモンなどの新鮮な果物や野菜を摂ることによって平癒した。この病気の原因がビタミンCの欠乏とわかったのは二十世紀のことで、血が壊れる病と書くが、駄目になるのは血液ではなく血管の方である。歯茎から血が滲み出るなど体内の各器官で出血が起こる。血管壁の重要な構成成分であるコラーゲンが作れなくなるからである。体内の蛋白質の実に約四分の一がコラーゲンで、その合成にビタミンCが必須の役割を担う。コラーゲンは特に皮膚に多く含まれており、十分量のビタミンCの摂取によって艶やかな肌が得られるという説にはそれなりの合理性がありそうである。

掲載:「春星」平成二十八年(第七十一巻)十一月号(通巻八百三十号)

追記 】健康食品などの広告にはよく体験記が登場する。一般的に体験談の類は客観性に乏しく、あまり信用しない方が賢明ではあるが、以下はビタミンCについての思い出である。昭和52〜54年の2年間を一家でカリフォルニアで過ごしたが、日本では高価であったビタミンCが信じられないくらい安価で入手でき、毎日1グラムの錠剤を口にしていた妻の言うに肌がツルツルになってきたと・・・。聞けば、同様の経験者は他にも居るとのこと。当時はコラーゲンの生合成について無知であったが、今にして思えば成る程と納得がいく。ただし、余分の水溶性ビタミンは蓄積されずに排泄されるとはいえ、ビタミン類の過剰な摂取に問題がないか否かはまた別の話である。




餅 肌 

川 井 正 雄 

 搗き上がった餅に片栗粉をまぶして丸めると柔らかな弾力が心地よい。当然ながら時日を経ると固くなり、水分が抜けた表面はひび割れてきたりもする。

         香炷いて座敷無人や鏡餅    島春
         既にして断層ひらく鏡餅    同

 人も同様で、幼な子の皮膚は瑞々しいが老人の皮膚はかさかさと干からびている。年頃の女性の願いはその艶やかな餅肌の日々の永からんことであろう。

 老若を問わず肌に気を配る女性はコラーゲンを謳った健康食品類の宣伝に惹かれるようである。この蛋白質は、皮膚はもとより血管壁など全身で細胞どうしをつなぐ重要な役割を担っている。有り触れたアミノ酸から作られるが、最後にビタミンCの助けで一細工が加えられて完成品となる。極めて丈夫で広く動物の体の中に存在し、熱湯でほぐしたものがゼラチンである。コラーゲンやその断片を口にしても、そのまま私たちの体に組み入れられることは有り得ない。消化されてアミノ酸にまで分解されたものは蛋白質合成の原料となるが、細工を受けたアミノ酸はもはや合成には使えない。元々コラーゲンには必須アミノ酸が殆ど含まれておらず栄養価は低いので「お肌の曲がり角」の救世主には程遠い。イメージと現実のギャップはこの種の商品では珍しくない。

掲載:「春星」平成二十九年(第七十二巻)一月号(通巻八百三十二号)




春は名のみの 

川 井 正 雄 

 暦の上では節分の翌日の立春からが春であるが「春は名のみの風の寒さや」の日々を経てやがて暖かい春を迎える。枯草色の土手に徐々に緑が増え始め、其処此処に土筆が顔を出しているのを見付けて春を実感する。

         土筆摘み日の香ほかほか持ち帰る かすみ

 童謡「春が来た」の歌詞をたどる迄もなく、花が咲き鳥が鳴いて、生き物は明るく賑やかな季節を謳歌する。草木が茶色に枯れて囀る鳥が姿を消し、新しい生命の誕生のない世界が、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」の冒頭の情景である。農薬、殺虫剤が生態系に与える影響を誇張した形で示し、自然破壊への警鐘として世界に衝撃を与えた。環境中に残留するDDTによる野鳥など野生生物への脅威が明らかにされ、この殺虫剤は全面的に禁止に至った。発疹チフス、マラリアを媒介する虱、蚊の駆除に貢献するなど数千万人規模の人命を救ってきたDDTは環境に仇なす嫌われ者に落ちぶれた。しかし、DDTの禁止後に亜熱帯や熱帯地方で罹患者が激増し発展途上国の人々の命を守るため流行地での使用を復活せざるを得なくなった。奇麗ごとの環境重視を脱し功罪を客観的に評価した賢明な選択である。一方、ベトナム戦争で散布された枯れ葉剤は益無く人々と環境を害したのみである。戦争は比類無い環境破壊である。

掲載:「春星」平成二十九年(第七十二巻)三月号(通巻八百三十四号)




加 齢

川 井 正 雄 

 寝る子は育つというが動物にとって睡眠は不可欠である。疲れた心身の癒しは当然として、私たちの頭脳にとって睡眠の役割は単なる疲労回復にとどまらない。眠っている間にその日の経験の整理、切り捨てが行われ重要な記憶だけが定着する。昔は睡眠を切り詰めての勉強が尊ばれたりしたが実は充分な睡眠こそ大切である。

         草芳し少年老い易くして眠る   島春

 よく学びよく眠ったかに関わらず夭折しない限りは万人すべて一年に一歳ずつ年をとる。学が成り難かったか否かはさておき、記憶力などがどんどん落ちていく悩みを嘆き合うのが高齢者である。確かに脳の神経細胞は次々と死滅していくが、未使用のものが無尽蔵に近いほどあり、それを使えば困らない筈である。アルツハイマー病で脳の萎縮が見られるのに文筆活動の効果か症状はまったく現れないといった例もあるらしい。

 肉体的活動の方は、一般的には年とともに筋肉量は減少するが、また筋肉は何歳になっても鍛えることが可能である。運動機能に必要な細胞が生命機能維持の細胞よりも先に衰えてしまうのが寝たきり生活である。元気に世を去るポックリ死を願うなら身体は動かし続けなければならない。階段を一段上る毎に寿命が四秒伸びるという試算もある。心して加齢と付き合っていきたい。

掲載:「春星」平成二十九年(第七十二巻)四月号(通巻八百三十五号)

川 井 正 雄 

 梅雨時は生活空間全体がじめじめして気を許せば黴の天下になってしまう。最も清潔であってほしい台所、風呂場、洗濯槽などに発生し食品も例外ではない。

         原型は蜜柑書庫より黴一塊    島春

たまたま放置された果物が培地となって、全体がそのまま黴に置き代わってしまったかのような様相である。

 茸と黴は見た目は大違いであるが乱暴に言えば茸も黴の仲間である。共に菌糸の集合体であって増殖のための胞子を作るが、茸の場合は胞子を作って放つための構造体すなわち子実体が大きく特徴的である。普通私たちは、目に付くこの地上部分を指して茸と呼んでいる。

 黴類は食品類をはじめ多様なものを栄養源として増殖する。生きている虫に入り込んで体内を菌糸だらけにし、その屍体から子実体が生えてくることもある。虫が変身して茎のような物が現れる不思議、いわゆる冬虫夏草である。寄生される虫は蝉、蜘蛛など多様であって蝉茸、蜘蛛茸などと呼ばれる。これらは特殊な例として注目を浴びるが、一般に自然界では寄生はむしろ普遍で決して珍しい現象ではない。同様に、人間社会にも目立たない形で様々な寄生がはびこっているのであろう。

(注記)本家の中国では冬虫夏草は特定の種の蛾の幼虫への寄生で、乾燥して薬用に供される物のみを指す。

掲載:「春星」平成二十九年(第七十二巻)六月号(通巻八百三十七号)





顔 貌

川 井 正 雄 

 窓などの配置が目や口を連想させる建物の壁やヘッドライトがギョロ目の車を始めとして結構色々な物が顔に見える。東南アジアに居るその名もずばり人面亀虫の背中の模様は見事に人間の顔であるが一匹ずつすべて表情が異なっている。一方、例えばよく見かける赤地に七つの黒丸の天道虫はみな同じ模様でバラエティは無いように見える。単なる模様では微妙な差異に気付きにくいのに対し、顔として見るとその造りの違いが明瞭に認識できるのであろう。人の感情は目や口に端的に表れて、への字に曲げた口は不機嫌を示すが、喜びや笑いで幸せな気分の時は自然と口角が上がってくる。

         ビール飲む顔長男に描かれゐる   島春

百薬の長の効果で画用紙の顔はさぞご機嫌であろう。

 同窓会で久し振りに昔馴染みに会うと最初は誰だか分からないことが多い。互いに名乗り合うと、ああそうだったかと今昔の顔が素直に重なり合う。変わらぬ特徴が無意識に認識できているのであろう。画像解析技術の進歩は目覚ましくパソコンやカメラの顔認識機能は個々の特徴を捉えて記憶データにある人物を素早く見付け出す。昨今は監視カメラが随所にあって犯罪捜査やテロ対策には心強かろうが、何かの間違いで自分が不審者リストに入れられてしまったらと思うとぞっとする。

掲載:「春星」平成二十九年(第七十二巻)七月号(通巻八百三十八号)





かぐや姫

川 井 正 雄 

 狸囃子や茂林寺の分福茶釜をはじめとして各地に化け狸や化け狐にまつわる言い伝えが残っている。葛の葉伝説では、実在の陰陽師安部晴明の母は狐である。荒唐無稽と一笑に付することは出来ようが、現代の知識を忘れて素朴な感覚に戻れたとすればどうであろう。飛行機やテレビや電子レンジ等の存在こそ摩訶不思議の極みに違いない。それらに比べれば、山に棲む狐が人里に現れて美女に成り済ましたり、木の葉を小判に変えて見せるなど造作もないことのように思えそうである。世のめまぐるしい進歩の中でつい即物的になりがちであるが、昔話や民話の世界の魅力や奥深さも見直してみたい。

         月に薄供へて宇宙時代なる   かすみ

 お伽噺の桃太郎は子宝に恵まれなかった老夫婦への神からの授かりものであろうが、かぐや姫の出自は月の都であって竹取物語は宇宙小説でもある。満月の夜に月からのお迎えを受けた姫は、天の羽衣をまとった途端にこの世の人としての心を失ってしまう。慈しんで育ててもらった翁への思いも忘れて月に帰っていく。この日本最古の物語の結末は地上人にとっては切ない。昨今は、偉くなって常識人のセンスを喪失した政治家の様々な言動が耳目に触れるのが切ない限りである。

掲載:「春星」平成二十九年(第七十二巻)九月号(通巻八百四十号)





郵便ポスト

                   川 井 正 雄 

 偽りの心を抱いて口に手を入れると食い千切られるという石像がある。「ローマの休日」の名シーンの一つがこの海神トリトンの「真実の口」での戯れである。

         ポストに手食はせがてらに月仰ぐ  島春

昭和三十年の句なので重量感のある赤い丸型であろう。中に何が有るか、何が居るかわからないと思えば、安心して手指を挿し入れることなど出来そうもない。

 我が国の郵便は極めて信頼度が高い。かつて執筆中の本のカットに使用するため貴重な切手をお借りした。「速やかにお返しに参ります」に対して「郵便は安全なので郵送で結構」がその郵趣家の返答であった。万一のことがあれば私の気持ちが許さないと、隣の県まで直接お届けした。年寄りが電車を乗り継いで物品を運ぶとすれば様々な事故が起こり得る。冷静に客観的に見れば、その可能性は郵便物の配送中に件の貴重品が破損、紛失する危険性より高いであろう。自身が関わることに対しては、ついその判断が甘くなり勝ちなのが常である。

 原子力発電に関わる方々は、その安全性への信頼が異様に高い。列島全体が環太平洋火山帯に位置する我が国は常に大地震の危険に曝されている。安全神話はバベルの塔の如く崩壊し、今も故郷に戻れない福島県民は多い。今や国民の原子力発電所への信頼は極めて低い。

掲載:「春星」平成二十九年(第七十二巻)十月号(通巻八百四十一号)





温 泉

                   川 井 正 雄 

 我が国は温泉大国で全国各地に温泉の湧出を見る。

         雪の夜のテレビは旅を温泉へ   島春

湯浴みの心身への効能から古来温泉旅行の人気は高い。動物の名前を含む温泉もあって鹿教湯温泉、鶯宿温泉などは開湯伝説に鳥獣が関わっている。昨今では湯に親しむ猿の姿が客寄せの目玉となっている観光地もある。

 温泉好きは人々や動物たちにとどまらず、温泉に住み付いているバクテリアが居る。いわゆる好熱菌で、私達が大火傷するような九十度以上でも生育できる猛者は超好熱菌と呼ばれる。これらの生き物は当然ながら熱に丈夫な蛋白質や核酸や脂質で出来ている。生体内での化学変化を進める酵素は今や様々な有用物質の生産に利用されているが、好熱菌の酵素は特に丈夫で重宝される。耐熱性の酵素の応用で最も注目されるものの一つがPCRと呼ばれるDNA増幅技術である。酵素は蛋白質であり熱をかけると変性して活性を失うのは常識であるが、丈夫な二重鎖のDNAを二本に分離させる高温でも失活しないという特性が見事に生かされている。

 極限環境に住む微生物の探求という生物学者の知的好奇心が原点であったが、昨今は直接に役立つ研究のみが尊ばれ過ぎて嘆かわしい。実利とは無縁の学術研究の重要性を無視して将来の科学技術の発展は望めない。

掲載:「春星」平成二十九年(第七十二巻)十二月号(通巻八百四十三号)





マスク

                   川 井 正 雄 

 小さい頃は勿論で成人してからも体を冷やすと直ぐに風邪を引いた。今年こそは体質改善をと薄着で頑張ったりもしたが、一旦風邪を引いてしまうと後は厚着のまま冬の終わりを待つのが落ちである。三十代半ばに暖かいカリフォルニア南部で暮らした二年間は毎朝シャワーを浴びた。帰国後、真冬にもその習慣を続けたのが功を奏して殆ど風邪知らずになった。しかし、昨秋は年の所為に油断と無理が加わって、久々の風邪引きで長い間酷い咳に悩まされ続けることとなった。外出にはずっとマフラー、マスク、のど飴などが必需品である。

         人間の顔眼鏡掛けマスク掛け   島春

 マスクの着用は病原体の出入りや花粉などのアレルゲンの吸入を抑えるのが主目的であろうが、乾いた冷気が喉に直接当たるのを防いでくれるのも有難い。マスクの常用が長引くと、やめたときには開放感と同時にまた風邪を引くのではと心細くなる。マスク離れの際に喉を傷め易いのは、身体はいたわればそれだけ柔になることの典型的な一例である。しかし、街でマスク姿が多いのにはまた別の事情もある。心理的なマスク依存症で、表情を隠してくれる覆いがないと落ち着かないという。口は外界と繋がる玄関口でありマスクの役割は様々である。無ければ物言わずとも唇が寒くなる場合もある。

掲載:「春星」平成三十年(第七十三巻)二月号(通巻八百四十五号)





土 筆

                   川 井 正 雄 

 年明け早々、土筆が庭にとのメールに驚いた。頭と袴がくるまって地下茎に繋がっている写真が続報で、友人がチューリップの球根を植える際に見付けた。寝込みを襲われた形で、土筆摘みの季節は未だ未だ先である。

         土筆摘むと筍掘ると静と動   島春

 筍も張り巡らされた地下茎から出てくる。食用に掘り起こすのは先端が僅かに地面に顔を出し始める頃で、幾重にも竹の皮で覆われている。そのまま成長するなら皮はすっかり剥がれ落ちて見違えるような若竹となる。

 筍と竹の関係とは異なり、「土筆誰の子スギナの子」と歌われるスギナは地下茎で繋がっているが土筆がスギナに変身することはない。土筆は遠方まで胞子を撒き散らして子孫繁栄に尽くすの対し、スギナは光合成によって生存のための栄養を生産する。早春の味覚の土筆は可愛い人気者であるが、繁殖力の旺盛なスギナは畑地では防除の困難な雑草とされている。土筆は大事にしたいがスギナは排除したいというのは二律背反である。

 果樹を育てて果実を得るために、先ず幹や枝が成長し太陽の恵みを享受する葉を必要とするのは自明の理である。我が国では将来の保証のない多くの若者が不安に怯えつつ先端研究を担っている。目先の収穫のみを追うが如き科学政策がもたらす日本の科学の未来は暗い。

掲載:「春星」平成三十年(第七十三巻)三月号(通巻八百四十六号) 





化ける

                   川 井 正 雄 

 舎密は「せいみ」と読み何やら怪しの気が漂うが、明治初期にほぼ同義語の化学に置き換えられた。同音の科学と区別するため化学は「ばけがく」と呼ばれたりもする。周囲を見渡すとプラスチックを筆頭に種々の人工化学物質を用いた製品が殆どで、自然の素材のみで出来ている品物は稀有である。化学の進歩の恩恵を受けて今日の豊かな暮らしがあるのは明白である。公害物質など偶々の不幸な失敗例の印象が強く、化学そのものが悪者の如くみなされる事が多いのは口惜しい限りである。

 化けるの語感もまたあまりよろしくはない。化けるすなわち変わるであり変化には良否があり得るが、他動詞の化かすに良い意味はない。国民を化かす政治がまかり通るのは三流国であろう。化けの皮が剥がれるとは包み隠していた悪い面が露わになることである。一方、良い方の用例では、芸術家や運動選手などが突然に想定を遥かに超えた上達を見せるのを化けると表現する。長年の見えざる工夫や努力の成果の顕在化であろう。

         五月鯉泳げり水柱想像す     島春

 青空に泳ぐ鯉幟は爽やかな風物詩で鯉は出世して龍になるという伝説の故の縁起物である。龍に化けるためには急流の龍門を登り切らねばならない。才能に恵まれ努力を重ね試練を耐え抜いた者のみが登龍門に至る。

掲載:「春星」平成三十年(第七十三巻)五月号(通巻八百四十八号) 





電 子

川 井 正 雄  

 かつては電池といえば円柱状の乾電池だったが今はボタン電池をはじめ様々な電池を目にする。形は多様でも正極から負極に向かって電流が流れることに変わりはない。しかし導線を流れる電流の本体はマイナスの電荷を持つ電子で、負極から出て正極に戻る。電流の定義が実際の物流と逆向きという不都合であるが、電気の本質が分かったのがずっと後のことで致し方なかった。

        青竹を打ち割るごとく雷鳴す     島春

 雷は洋の東西を問わず神々のわざとされていた。電気が演じる自然現象であると証明されたのは十八世紀中頃である。雷雲の上部は正、下部は負に帯電し、下部からの電子の放出が落雷の引き金となる。放電に伴う爆音が「神鳴り」である。つい最近、雷雲の中で陽電子が発生していることが明らかになった。電子とは瓜二つでマイナスではなくプラスの電荷を持っているのが陽電子である。陽電子は普通の電子と出会った途端に消滅するので、陽電子の寿命は一瞬である。消滅に際して高エネルギーの電磁波ガンマ線を放出する。このSFもどきを医療に応用するのが陽電子放射断層撮影(PET)である。癌細胞に集まる薬剤が陽電子を発生し、放射されるガンマ線から患部の鮮明な画像が得られる。科学の進歩がもたらす現実は神話やSFの世界を超えている

掲載:「春星」平成三十年(第七十三巻)六月号(通巻八百四十九号)





雑 草

川井正雄   

 舗装の隙間にも顔を出す邪魔者扱いの雑草の類とは別枠で、山野に自生する野草は人工環境の無機質とは対極の響きを持つ。庭に生えてくる草となると住人の生き方や価値観により扱いは様々である。元々面倒な草取りは避けたいのと自然のままで良いとの思いが合わさって我が庭は野草ならぬ雑草が蔓延りがちである。

         打水や雑草世帯交替し  みえ

時偶にしか草むしりをしないので季節による変遷がよく分かる。何ヶ月か前は烏野豌豆が隆盛を極めていた庭に父子草が所構わず地味な花を咲かせている。地中で時期を待っていた荒地盗人萩の根から緑の葉が出始めており、退治し切れず花の後の実がズボンの裾にへばりつく事態に至るのも毎年のことである。物は言い様、まさに生物多様性に富む庭であって、それぞれの生育に適した植物が住み着いている。小まめに草取りをしたとしても取り切れぬ根が残るし種は何処かから飛んで来る。

 植物は天の恵み、地の恵みにより成長するが、栽培種は更に大きく人からの恵みを受けるのが自然の中の野草と著しく異なる。雑草には人々からの施しはなく迫害をくぐり抜けつつ健気に生き続けている。私達の美感、価値観や様々な都合で勝手に十把一絡げに雑草と呼ばれて過酷な運命を生きる可哀想な存在ではある。

掲載:「春星」平成三十年(第七十三巻)八月号(通巻八百五十一号)

追記 】 生物名はカタカナ表記が標準であるが、俳句誌への寄稿文としては、カラスノエンドウやチチコグサよりも烏野豌豆、父子草の方がふさわしそうである。カタカナでは生物名の由来などがわからなくなってしまうので、カナ名前の後に適宜( )に入れて漢字を入れることを提唱しているが、それについては「蝶あれこれ」の<注記を参照頂きたい。




山 並

川 井 正 雄  

 近くの交野山には学生時代数えきれぬほど登った。山頂の巨岩からは雄大な河内野の光景が見下ろせた。

         借景の山の稜線秋晴るゝ   かすみ

三十四年間離れていた故郷に戻って我が家から眺める山並は、周辺の樹々の成長の所為で突出する岩塊が大人しい。彼岸の中日には我が家の真東に位置するその観音岩から日が昇ることに勿論今も昔も変わりはない。

 帰郷にあたり築百数十年の母屋は解体し一部は古民家再生等に供した。明治以降に入れられたと思われる窓ガラスも波打っていて時代が感じられた。ガラスは硬くて割れる固体であるが、原子の並び方は不規則で非常に粘度の高い液体ともみなし得る。実際に年代物の板ガラスは上が薄くて下ほど厚くなっているという。

 時間のスケールを変えてみれば大地もまた流動性を持っている。日本列島は地球表面のプレートが沈み込んで大陸から切り離され、現在の弧状列島の姿となった。

 主峰の生駒山に続く件の山並であるが、なだらかな奈良県側に比べて大阪平野側の傾斜が急である。その非対称な地形は生駒山地を産み出した約百万年前の基盤岩の運動の反映である。動かざること山の如しというが大山も鳴動し時には火を吐いて熔岩を噴出する。私たちは様々な刻みで動く時計の中で今を生きている。

掲載:「春星」平成三十年(第七十三巻)九月号(通巻八百五十二号)





想 定 外

川 井 正 雄  

 天災は忘れた頃にやってくると言われるが、昨今は忘れる暇もなく地震、台風、豪雨等の災害に見舞われている。何時起こるかは別として地球の成り立ちを考えると大地震や大噴火は必然、不可避である。異常気象の類の災難は明らかに頻度を増していて遠い異国の話と思い込んできた竜巻も今は他人事ではない。世界中で未曾有の熱波、寒波、豪雨、旱魃が報じられている。いずれは異常でも未曾有でもなくなってしまいそうである。

 杞憂は天の崩落を恐れる如き無用の取越し苦労の意である。天変地異の類の蓋然性は様々で、隕石が頭上を襲う確率はゼロに近いが大地震や大津波等はある頻度で我が国を襲っている。為政者は災害に見舞われる可能性と実害の重篤性を勘案しつつ真摯に対策を講じなければならない筈である。種々の思惑から、起こると不都合な事には目を瞑って済ませ、想定外なる便利な言葉を免罪符にその無策が不問にされることが多い。

 科学の目覚ましい進歩に関わらず我々は未だ浅学無知で自然、生命等いずれも人智は遥か及ばない。地震の予知が困難なように今の元気な姿が明日を保証しない。

         旅寒し友逝く報に撃ち抜かれ

万人例外なく遅かれ早かれ死が訪れる。自然の摂理として受け止め、友を瞼に今ある自分を有意義に生きたい。

掲載:「春星」平成三十年(第七十三巻)十一月号(通巻八百五十四号)





リ ハ ビ リ

川 井 正 雄  

 寄る年波には抗えず覚えるより忘れるが早いを日々痛感する。様々な能力が徐々に下降線をたどるのは自然な姿ではあろうがやはり侘しい。脳細胞は年と共に減少するというが、実は莫大な数の未使用部分があってこれらを少しばかり活用すれば問題ない筈である。アルツハイマー症の脳萎縮が見られるにも関わらず文筆活動の効果か外的な症状が現れないという例もあるらしい。

 卒寿を過ぎてなおフルマラソンを完走される方々が居られる。マスターズの大会では種々の競技で若者顔負けの活躍がある。エリートならぬ私たち凡人にも共通し得るのは筋肉は年齢を問わず鍛えられるという事である。蛋白質は常にリニューアルされていて、鍛錬により強化できるが、逆に休ませ過ぎるといわゆる廃用萎縮で筋肉量は減少する。体も頭も同じで、使わないと劣化が進むが適度に使い続ければ長持ちしてくれる。

 病気や怪我は廃用退化に繋がりかねないが、却って希望の灯火になることもある。日にち薬なる言葉の通り日増しに症状が治まっていくと滅入った心に光が灯る。かつて筆者は足腰を痛めて苦労したが、目に見えて日毎に進歩する自分の姿は何十年振りかと感慨を覚えた。

          リハビリの膝確かめつ年暮るる

努力の暁には希望に満ちた新たな年が待っている。

掲載:「春星」平成三十年(第七十三巻)十二月号(通巻八百五十五号)

     

 俳句誌での掲載ということで、かなり背伸びをして、自分でも書けないどころか読めないかも?の漢字や難しい語彙も用いて寄稿を続けてきました。だんだんと息切れ状態となり、定期的な寄稿は上記の「リハビリ」を最後とすることにしました。

 今後、テーマ毎に整理して、季語の解説や関連の話題なども加えて、本の形にする予定です。


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⇒「エッセーwith俳句」
 

 「切手」(H28.01)  「内と外」(H28.02)  「スカンポ」(H28.04)  「渡し舟」(H28.05)
 「炭素は巡る」(H28.07)  「二酸化炭素」(H28.08) 「鏡の中」(H28.10)
 「ビタミンC」(H28.11)  「餅肌」(H29.01)  「春は名のみの」(H29.03)
 「加齢」(H29.04)  「冬虫夏草」(H29.06)  「顔貌」(H29.07)  「かぐや姫」(H29.09)
 「郵便ポスト」(H29.10) 「温泉」(H29.12)  「マスク」(H30.02)  「土筆」(H30.03)
 「化ける」(H30.05)  「電子」(H30.06)  「雑草」(H30.08)  「山並」(H30.09)
 「想定外」(H30.11)  「リハビリ」(H30.12)