奈良県立医科大学教養教育紀要「HUMANITAS」への寄稿文です。

HUMANITAS 第42号、pp41-52、2017年3月

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「 杖さまざま – 加齢なる未知を歩む 」

川 井 正 雄 

1.はじめに

 スフィンクスの「朝は4本足,昼は2本足,夕は3本足」の謎かけを持ち出すまでもなく,這い這いの状態からスタートして,2本の足で歩いている我々も,やがては足腰が弱ってバランスも悪くなり,杖という3本目の足のお世話になる日がやってくる.最近は,ストックを両手のノルディックウォーキングもよく見かけるが,この4本足は高齢でも元気そうな方が多い.

 年とともに不具合が増えてくるのは当然で,筆者もいずれは二足歩行が怪しくなる時期が訪れるであろう.早逝しない限りは誰もが通る道ではあろうが,老化は当人にとって初体験である.実際に自らが経験してみるまでは想像してもみなかった状況にも遭遇しそうである.実は12年前,62歳の筆者は松葉杖なしには出勤もままならないという想定外の事態を迎えることとなった.

 本稿では,自らの松葉杖生活をはじめ主として杖の話題を中心に見聞きした種々の加齢現象のエピソードを紹介することにする.老いという未経験の世界を暗い終末へと進む道とはとらえず,明るい希望を含む華やかなものであって欲しいとの思いをこめて,「華麗な道」の言葉遊びではあるが「加齢なる未知を歩む」との副題をつけた.

2.松葉杖初体験

 2005年,62歳のお正月休みの朝,寝床から起きようとすると左足が痛くて立ち上がれない.動こうとすると痛みが走り,2階から階段を下りて食卓につくまでに5分から10分程度を要したような気がする.2日間ほどは,トイレと食事に起き上がる以外は,ずっとこたつで芋虫のようになって過ごした.少しは動けるようになってから近くの整形外科を訪れると,高齢の医師は,筆者が訴える足首あたりはほとんど診ることなく,腰のレントゲンを撮って腰に注射を打ってくれた.最初は「痛いのはそこじゃないのに,このヤブ医者!」と心の中でつぶやいていた筆者であったが,腰の異常が足の痛みの原因であった.

 足に異変が起こったのはその半月ほど前のことで,3時間ほどジョギングをした翌日の朝から足に痛みを感じていた.少しは痛いながらも日常生活を過ごせていたのだが,無理な姿勢で干してある布団を引っ張った際に症状を極度に悪化させてしまったらしい.腰椎変形症といった診断であったと記憶するが,素人考えではぎっくり腰かその親類なのであろう.

 やがて冬休みも終わりを迎え,有機化学の授業が始まることとなった.学年末までに残された時間数を考えると休んでいる余裕はない.再び整形外科医を訪ねて松葉杖を借り出すことにした. スキーのたぐいが極めて苦手な筆者にとって,この「杖さばき」は結構難しい.ともかく痛い方の足に負荷をかけることは禁物であり,院内で練習してから外に出た.

 最初の出勤は,豊田市の家から駅へも,また駅から職場の名古屋工業大学へもタクシーを使った.ふだん乗り降りしている最寄り駅にエレベーターがないことは,足を痛めて初めて気付いた.1) 乗る方も,降りる方も,隣の駅にはちゃんとエレベーターが備わっていたのは幸いであった.授業では,左手の松葉杖で痛い左足を庇いながら,板書をした.日数の経過とともに痛みはやわらぎ,次の週には松葉杖は片方だけでよくなり,その翌週は山登り用の伸縮杖にかえた.杖は痛い足を庇ってくれたが,それでも,いつもは6,7分で横切っていた大学前の鶴舞公園を,途中の寒いベンチで休憩を入れないと歩き切れなかった.その次の週にはもう杖は不要となったが,念のため背中のザックに杖を入れての通勤であった.

 ほとんど故障らしい故障もなく10年以上走り続けてきた市民ランナーという筆者の誇りは崩れ,マラソン歴もこれで終止符かと思った.しかし日薬という言葉そのままに,日を追って症状は改善されてきたので,やや冒険ながら2月末のハーフマラソンに出場,さらに半年後には7回目のフルマラソン完走を果たす程度にまでは復活した.2)

3.腰痛と惨めな背中

 先に述べた松葉杖体験の前まで「足腰は丈夫だ」と信じ込んでいた筆者であったが,それは大いなる誤解であった.実は丈夫なのは足の方だけで,腰は脆弱であることを悟った.松葉杖が必要なほどに足が痛くなったのも,腰の骨の少しの変形とかずれが原因らしい.その後は,ちょっと無理な姿勢を続けると,すぐに腰に違和感が出るようになった.松葉杖から1年半ほど経ってからのことであるが,すでに退職して郷里に戻っていた筆者は,お盆の墓掃除の際に,近くで整形外科を開業している遠縁の先輩に出会った.「腰が心配なら診てあげますよ」とのことで後ほど訪ねて調べて頂いたが,そこで告げられたのは背中の筋肉の衰弱であった.標準のX線写真と見較べると,背筋の幅は狭く,萎んで広がりを失っている (図1).3) 力こぶは力強い男性のイメージであるが,逆にその筋肉がへこんでいたら惨めであろう.見えないところで筆者の背中の筋肉がみすぼらしい姿になっている.もともと腰は強くなかったが,故障のあと,ついつい腰を庇う日々が続いたので,一層弱ってしまったらしい.腰周りの筋肉の衰弱が,骨の変形やずれを呼ぶ.「体はいたわればいたわるだけ,やわになる」はまさに筆者の持論であったにもかかわらず,迂闊であった.ずっと筆者がよりどころとしてきた「継続は力なり」を信じて,背筋と腹筋の運動を根気よく続けることが重要であろう.

図1.腰椎のX線写真 (左が筆者,右が健常者の見本.それぞれ片側だけ背筋の輪郭を示した.)3)

4.転ばぬ先の杖

 筆者はスポーツの類が苦手で,スキーとスケートは申し訳程度に1,2回試みただけで,さっさと諦めてしまったが,平衡感覚の乏しさのゆえである.自転車に乗れるようになるまでに非常な努力を要したことも,それを裏付けている.傘をさして片手で自転車を操ることなど,普通の人には当たり前のことかもしれないが,筆者には無理である.4) バランスの悪い筆者にとって,杖を必要とする時期は,人よりも早くやってくるかも知れない.一方,筆者の足はいたって丈夫であって,積極的に歩いたり走ったりするのは,コンプレックスの裏返しであろう.50歳で市民ランナーとなってより74歳の今日に至るまで,フルマラソン12回,ハーフマラソン50回の完走を果たしている.71歳の春の大会を最後のフルマラソンとしたが,杖に頼るのは人並みの年齢よりは後になるかも…との期待もできそうである.

 十数年前のことであるが,高校時代のクラブ仲間の尾瀬歩きの世話人を引き受けることになった.一度,下見に出かけたが,鳩待峠から尾瀬ケ原への下りはかなり急である.それで,何かのトラブルの際の助けにもなろうかと生まれて初めて登山用品店で杖を購入し,本番では「転ばぬ先の杖」として持参した.果たして,仲間の一人が出発前に家で机にぶつけたとかで,その足の痛みがひどくなって,筆者の持参した杖が大いに役立った.さらにその杖は,新調した山靴で靴擦れが出来て歩くのが辛いというまた別の仲間の手に渡り,最後までフルに活用されて面目を施した.

 若い仲間との山歩きで,登りは何とかペースを合わせられるのだが,バランスに難のある筆者は,下りになると一歩一歩踏みしめて歩くため,遅れて迷惑をかけがちである.せっかく買ったのだから自分も使ってみようと,例の登山杖を携行したところ,3本目の足の「転ばぬ先の杖」の効能はあらたかで,下山時のペースダウンをかなり抑えることができた.筆者にとって,平地で杖が必要となるのは,まだまだ先のことと思いたいが,山行きでは,杖は必需品に近付きつつある.

5.早過ぎる杖

 高齢者の事故は,自宅の周辺で起こることが多いというが,中でも屋内での事故,居室での事故が多い (図2).5) 自宅から遠出をする機会が減っているであろうことを考えれば,当然である.最も多くの時間を過ごすことになる自宅を安全な場所にすることが大切で,風呂,トイレや廊下に手摺りを設けるとともに,床面に段差を作らないバリアフリーの空間を理想とするのが,最近の考え方のようである.

     図2.事故発生場所 (平成28年度版高齢社会白書)5)     

 筆者より若い人から,ずっと以前のこととして聞いた話であるが,バリアフリーの住宅に住み始めてから,夫婦ともに外を歩いていて躓くようになったそうである.その後,普通の家に引っ越してからは,そんなことはなくなったとのことであった.つま先を上げなくても転ばなくてすむ環境のもと,足に負担をかけない歩き方に慣れてしまい,かえって外で転びやすくなるという皮肉な事態である.

 かつての職場の大先輩が「母はもう高齢ですが,本当に必要となるまでは家の改造を行いません.そのほうが,長く元気でいてくれると思います」と述べていた.その昭和一桁生まれの才媛から母上のご逝去を伝える喪中の挨拶が届いたのはずっと後のことであった.彼女の期待通りに長生きをされたわけで,バリアフリー化の先延ばしという深慮が正鵠を得ていたことを示している.

 4階建ての公団住宅にはエレベーターが無かったころ,上階に住む人ほど健康であるという話を聞いた.健康状態に難がある人は上階には住まないであろうと考えられるが,健康と階段の利用には相関がありそうである.実際に,階段を1段上がるごとに4秒ずつ長生きするという試算が報告されている.6) 日常的な運動が重要で,無理し過ぎないように気をつけるなら,身体はしっかり使う方が丈夫に長持ちするに違いない.逆に,体を動かすことを厭う暮らしを続けていると,「走らない」が「走れない」に,「歩かない」が「歩けない」に,そしてついには,「起ち上がらない」が「起ち上がれない」へと,寝たきり生活への道が早まってしまいかねない.エレベーターやエスカレーターが普及した今日であるが,それらに頼り過ぎることなく自分の足で階段を歩く努力が,足腰の衰えを遅らせてくれるはずである.ボタンを押して別の階にある巨大な金属の箱を呼び寄せるという傲慢は,電気の無駄遣いによる地球環境への負荷にとどまらず,自らの健康へも負の効果をもたらしているに違いない.

 「転ばぬ先の杖」は,そのわずか6文字の中に先人の智慧が凝縮されているが,体力や健康の維持にはそれなりの努力が必要であることを考えると,杖への頼り方にも配慮が要りそうである.杖を使う生活が,杖なしには生きられない身体への早道かもしれないとすれば「早過ぎる杖」は避けたい.「転ぶ寸前の杖」が理想であるが,その時期の見極めは至難の業であろう.

6.遅すぎた杖

 現役を退いて職場を離れ,そのまま流れに任せていると交際範囲,交友関係の幅が狭まっていきかねないので,意識して自分の社会を広げる努力も重要となる.筆者は,定年退職とともに故郷に戻ったが,同窓生たちとのハイキングに参加するとともに,市民大学に入って同期生の仲間を得ることもできた.つい最近,旧友の勧めで新たに山歩き仲間にも加えて頂いた.機会を見つけては昔の同僚を訪ねるなど,それなりの努力もしている.現役時代のつながりを忘れずに交友を続けるのも大事なことであろう.

 かつて家内の以前の職場の同僚が我が家を訪ねてきた時のことであるが,女性同士で繰り広げる四方山話を聞くともなしに耳に入ってきた中で強く心に残ったのが次の話である.ご母堂が台所でボヤ騒ぎを起こし,安全のために都市ガスから電化への台所改造を行った.火災の危険性が極めて小さく,簡単な操作で容易に加熱ができる電磁調理器ではあるが,高齢のゆえにそのボタン操作に馴染めない.折角の新しい調理システムが使えなくて,日課であった食事作りから遠ざかってしまう結果となった.料理を止めてから急に心身の健康が悪化して,やがては帰らぬ人となってしまった.キッチンの電化をもっと早くにやっておくべきであったとの後悔が心に響いた.

 筆者のかつての同級生にこの話を伝えたところ,別棟に住むお母様の洗濯機を二層式から全自動に代えてから,使いこなせるようになるまでが大変だったとのメールを受け取った.昔のタイプのオン/オフのスイッチしか理解できず,洗濯機の始動スイッチを指で押してオンにすることを納得させるのに2ヵ月ほどかかったらしい.

 先に「早過ぎる杖」が杖への依存を早めてしまうかも知れないと書いたが,上で紹介したのは「遅すぎた杖」の例である.新しいシステム,仕組みへの対応は,年をとればとるほど苦手になってくるので,ある種の高齢化対策は遅きに失してはならない.

 新しい環境への適応が年とともに不自由になってくるとすれば,頭脳の柔軟性を保つことが重要であろう.使わないと衰えが早まるのは,筋肉や骨だけでなく,頭の方も同様である.確かに,ワープロに頼っていると漢字が書けなくなってくるし,電卓に頼り過ぎると暗算・筆算の能力が落ちてくる.手足よりは頭が,体よりは心が上位であろうから,長く元気な体を保つために,生き生きした心を持ち続けることを心がけたい.色々な場で,ご高齢にもかかわらず元気に活躍されている方々に接することがあるが,そのような方は例外なく若々しい心の持ち主である.心の若さの秘訣はきっと百人百様であろう.元気な高齢者のお話を聞くことにより,その心身の健康法から自分に合うものを見出すことができるかもしれない.それは,豊かな老後を支える「心の杖」となり,そのような杖は一本でも多い方が心強い.

7.父と杖

 筆者の一家が初めて関西を離れ東京の町田市に引っ越したあと,すぐに父が一人で上京してきた.別れた孫たちの顔が見たくなったからである.筆者もまた子らを連れてよく枚方の実家に帰った.上の子が小学校に上がるまでは,里帰りを兼ねた家族旅行を楽しんだ.残念ながら学齢期になると帰郷は学校の夏休みや冬休みなどに限られてしまった.初めは,父は京都駅の新幹線のホームまで迎えに来てくれたが,いつからかお迎えは京阪電車の枚方市駅に変わり,やがては,家の近くの地蔵の脇で待っていてくれるようになった.これは父の老いを示していて,ついには,玄関先での出迎えとなった.かつて自分の手で切り倒した直径数十センチほどの松の木の幹を腰掛けにして,孫たちが来るのを待ってくれていた.

 一人で新幹線に乗ってはるばるやって来たときの父は70歳であったが,出迎え場所がどんどんと家に近づいていったのは,それぞれいつ頃のことだったのか記憶は定かではない.では,父はいつ頃から杖を使い始めたのであろうか.これならアルバムを繰ればある程度はわかる.筆者たち一家がカリフォルニアのサンディエゴで過ごしていた1977年秋からの2年の間にも母は写真を送ってくれていたが,そこでは二人とも杖を携えている.もう少し年代を遡ってみると,1976年頃の写真のいずれにも杖は写っていない.筆者の渡米が近づいていた頃からアルバムに杖が登場するので,どうやら父は75歳の誕生日前後から杖を日常的に用い始めたようである.

 父は,秋晴れの体育の日に83歳で亡くなった.突然のことで,筆者が病院に駆けつけたときは,すでにベッドは空で,遺体は家に運ばれたあとであった.倒れる直前まではふだん通りの生活で,家の周囲を一周して近所の人に,杖を使いながらも「こんな溝も越せる」などと軽口を言って渡ってみせていたという.ほとんど家族との別れを惜しむいとまがなかったのは心残りではあろうが,筆者もできれば,父のように老い,父のように死にたい.

8.長寿社会

 戦後,日本人の平均寿命は着実に伸び,未曾有の長寿社会へと向かいつつある.筆者の父は1902年(明治35年)生まれで当時の平均寿命,すなわち0歳児の平均余命は43歳程度であったので,十分に長生きして83歳で亡くなったと言えよう.筆者が生まれた1942年(昭和17年)頃の平均寿命は50年足らずであるが,今年誕生する男児の平均寿命の約81歳,女児の約87歳と比べるとまさに隔世の感がある.現在74歳の筆者の平均余命は約13年とされているが,実際にあと何年が残されているのかは知る由もない.老化の進行という誰もが通る道ながら自らにとっては初めての世界を進んでいくことになる.

 敗戦からの復興を経て,生活の改善と医学・医療の進歩の恩恵で日本人の寿命は着実に伸びている.しかし,単なる長生きではなく健康寿命,すなわち日常生活に健康上の制限がなく生きる期間が伸びることが重要であることは言うまでもない.平均寿命と健康寿命の差が,日常生活がままならない不健康な期間であって,現在では男性が約9年,女性が約12年である.平均寿命と健康寿命の推移(図3)7)を見ると確かに両者はともに上昇しているが,平均寿命の延伸とともに,両者の差で示される不健康な期間も少しずつ伸びていることは由々しき事態と言えよう.

図3.平均寿命と健康寿命の推移7)  

9.有終の美へ

 人の死は,社会死,生活死,生物死の三段階に分けて考えることができるという.7) 筆者にとっては,63歳の定年で現役を退いた時からゆるやかに社会死が始まったと考えられなくもないが,医科大学でもう1年非常勤講師を続けさせて頂くことになっており,自宅にこもって近所付き合いをしなくなる時が真の社会死であろう.食事や排泄が自分で出来なくなる生活死を経て,やがては命が尽きる生物死を迎える.もし自分で選べるのなら生活死と生物死が一緒に訪れるぽっくり死を選びたいとは誰しもが思うことであろう.

 運動機能に必要な細胞が生命維持のための細胞より先に衰えてしまうのが寝たきり生活である.運動に関わる細胞は使われないと衰退するので,全部の細胞が一緒に衰弱するようにするために「死ぬまで働け」と長年にわたって地域医療に貢献した疋田善平医師は説く.8) 自然界の動物は,自力で動けなくなる時が死期であり,人間以外の動物はそうやって死ぬ.生活死から生物死までの期間が長引くことを避けたるため,身体を動かすことを厭ってはならない.走れるうちは走り,それが無理となれば歩き,エレベーターよりも階段を選ぶ習慣を続けたい.

 生物死の前段階としての寝たきり生活は未経験の世界であるが,怪我や病気で病床生活を送った経験は誰にでもあろう.高齢になってからは何事にも回復が遅いというのはある程度は覚悟していたが,もっと深刻であることを実感した.若かった時は,病気でも怪我でも安静が一番であった.しかし,長期にわたり身体を動かさないでいると筋肉は縮小し関節の可動域も狭まる.じっと動かずにいることは,筋肉を溶かし関節を動かなくする薬物の服用を続けているにも等しい.高齢者の場合は,症状が悪化しないように配慮しながら身体を動かし続けるという選択の幅が狭い苦しい綱渡りを強いられる.やはり「転ばぬ先の杖」などの配慮によって怪我や病気を避けるのが一番である.

 ヒトの寿命を考えると様々な側面があるが,9)生物としては個体の死は種の存続と繁栄に必須のプロセスである.長生きしすぎると地球の面積や資源が足りなくなるといった消極的な理由や,身体の古くなった構成成分を交換して生き延びるのが困難といった技術的な理由よりも,もっと重要なことは生殖によって次世代に新しい命を託すことが生物として望ましいということである.死を避けられない不幸と考えずに,肯定的に前向きに捉えたいと思う.

 個体間の遺伝子を交配して生物種としてのヒトの多様性を確保し人類の未来につなぐということだけが目的であれば,出産と子育てが終われば残りは不要の人生ということになる.実際に昆虫などでは,オスは交尾が終われば用済みでメスも産卵が終われば用済みという例も多い.ヒトでは,出産,子育てという生物としての大仕事を終えてから社会死に至るまでが長い.その期間がある意味では人生において最も充実していて,学術,芸術への貢献も長年の研鑽,経験の蓄積に負うところが多い.万物の霊長たる所以は,子をなす以外にも次世代に残すものが豊富にあるということであろう.

9.註記と引用文献

1)2005年の当時,エレベーターは名鉄豊田線の豊田市駅には設置されていたが隣の梅坪駅にはなく,また名古屋市営地下鉄鶴舞線の鶴舞駅にはあったが隣の荒畑駅にはなかった.2017年現在,沿線のほぼすべての駅にエレベーターが設置されている.

2)第27回犬山ハーフマラソン(10 kmの部) 59分54秒 (2005年2月),第9回大阪・淀川市民マラソン(フルマラソンの部) 4時間53分34秒 (2005年11月).

3)浅田整形外科(枚方市)でのX線撮影画像 (2006年11月).

4)現在は自転車の片手運転は禁止されている.(都道府県公安委員会規則,第70条,第71条)

5)平成28年度版高齢社会白書,6高齢者の生活環境 (1)高齢者の住まい,図1-2-6-3.

6)B. G. Petty and D. M. Herrington;‘Physical Activity and Longevity of College Almni’; New England Journal of Medicine 1986; 315: 399-401.

7)厚生労働省のホームページ,健康・医療,2平均寿命と健康寿命をみる,参考「平均寿命と健康寿命の推移」の図(出典は,厚生科学審議会地域保健健康増進栄養部会・次期国民健康づくり運動プラン策定専門委員会「健康日本21(第二次)の推進に関する参考資料」p26.

8)奥野修司;「満足死 – 寝たきりゼロの思想」講談社; 2007; pp100-109. 坂爪逸子;「中流の力 – すべては<立っち>に始まった」青舎社; 2008; pp43-44.

9)川井正雄;「生命を知るための基礎化学 – 分子の目線でヒトをみる」(9.寿命 – 死は新しい生へ)丸善; 2012; pp143-150.

[ 謝辞と付記 ]
階段を1段上ると4秒寿命が伸びるという試算の出典についてご教示頂いた追手門学院大学客員教授 児玉光雄氏および名古屋大学医学部准教授 川井久美氏に深謝する.バリアフリーの住宅からの外出で躓くという経験は,奈良県立医科大学の大崎茂芳教授(現在は名誉教授)よりお聞きしたものである.本稿は,筆者の63歳の定年の前後に書いた5篇のエッセーを再編,加筆を行うとともに,新たに「有終の美へ」の最終章を加えたものである.奈良県立医科大学教養教育紀要HUMANITASへの寄稿ということで,テーマの選択に迷った末に,前記のごとく十余年前の執筆に手を加える形でまとめることとなった.寄稿をお勧め頂いた化学教室の酒井宏水教授,山本惠三准教授に謝意を表する.

(奈良県立医科大学 非常勤講師・化学,中之島科学研究所,名古屋工業大学 名誉教授)

本稿は、2007年に「杖三題」と題して書いた3編のエッセー、「松葉杖初体験」「父と杖」「転ばぬ先の杖」と、そのあとに「補」として書き加えた「転んでからの杖 」、さらに「補の補」としての「心の杖」の計5編を再構成し、新たな加筆と文献資料等を加えて紀要論文の体裁を整え、奈良県立医大の「HUMANITAS」に寄稿したものである。

なお、類似のテーマで、「加齢」 と題した半ページ分のエッセーとして俳句誌「春星」の2017年4月号に寄稿した。

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