小林一茶とキリギリス  (2011. 6. 12)

 百人一首に、「きりぎりす 鳴くや霜夜の・・・」で始まる歌があるが、もちろん夏の虫であるキリギリスが寒い冬の夜に鳴くはずはない。当時のキリギリスは現在のコオロギ(蟋蟀)で、逆に、現在のキリギリスはかつてコオロギと呼ばれていた。同様に、スズムシ(鈴虫)とマツムシ(松虫)も平安時代と現在では逆転している。

 私にも、その程度の知識はないわけではなかったが、一茶の俳句にキリギリスの出てくるものが非常に多い、しかも、そこで詠まれているキリギリスは単なる昆虫ではないんだ!という話は、私にとって新鮮であった。私は、自然環境市民大学の2010年度の受講生として、二十余名の仲間とともに、虫や草や木々や川や海など、様々な角度から自然を学んだ。その同窓生の一人から先日送られて来た著書が「一茶 蛬を詠む」である。蛬を「きりぎりす」と読むことも、それで初めて知った。自然が好きでアシナガバチが趣味の印刷屋のおじさんというイメージと、文学関係の評論との取合せは、失礼ながら私にとって、意外以外の何ものでもなかった。さっそくに読ませていただいたが、こういった類の本としては、なかなか読み易く面白い。一茶の句の中のきりぎりすは、コオロギであったり今のキリギリスであったり、草陰で鳴く虫一般を指しているが、それよりも、実は、人間のことであるというのが最重要な主張である。一茶自身であったり、他人であったりする。いくつかの句は「きりぎりす」を「一茶かな」で置き換えて読めばよいとのことである。

 許しを得て、百近く挙げられているきりぎりすの句の解説の中から、著者が「この一句こそ日本俳句史上の白眉」と絶賛するそのひとつを次ぎに紹介させていただく。

釈 学道 著「一茶 蛬を詠む」より  

      夕月や流れ残りのきりぎりす (文化元年九月) 四十二歳

 一茶の傑作だと思う。キリギリスを詠んだ句中の白眉。きりぎりす(こおろぎ、馬追い、ツユムシその他)の声、川面を渡る風の音、夕月の色まで見えてくる。この句は一茶が俳諧師として度々訪れたであろう房総の大河、利根川の洪水をみて詠んでものだそうだ。流れ残りのきりぎりすは一茶自身でもある。歴史的に大河は幾度となく決壊氾濫をしている。今の人は見たことがないだろうが、氾濫までいかなくても、五十年前位までは決壊寸前の状態ならば台風の季節などには時々あった。私は近くの大河(淀川)で何度も見たことがある。増水すると河川敷の虫たちは先ず近くの草の葉の頂上にのぼるのである。しかし水位の上昇は凄まじく、草丈を越えてくるので、虫たちは流されだすのである。大河川は堤防も高い。したがって堤防の高いところの草に歩きながら、泳ぎながら、流されながら辿り着くのである。バッタも蛇も、ごみ虫も、だんご虫も、やすで・ゲジゲジの類も勿論キリギリスも。しかし不運なものは流れに呑み込まれていく。その水量の多いこと、流速の早いこと。普段、滔々と流れる大河も濁流に変わる。しかし、さしもの濁流も、いつとはなしに水位は下がり夕方が来るのである。すると草叢でこおろぎや馬追いやつゆむしが鳴き出すのだ。中天には夕月がかかっている。そして鳴いているのは、流されなかった運のいいムシ。半死半生で文字通り、虫の息のムシもいるだろう。私は流れ残りのキリギリスに江戸の世を、穢土の世を流され、もがいている一茶をそこに見出す。 (p53-54 より)

 なお、本書(全125ページ、発行:有限会社木下印刷、定価500円)の入手を希望される方は、著者のアドレス<cast@p-kinoshita.co.jp>にコンタクトされたい。

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