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 ⇒「鏡像異性体の名づけ方」 ⇒「鏡は左右を反転するか?」 ⇒「簡単に作れる分子模型」 
 ⇒「10月23日は『化学の日』!」 ⇒「生命を知るための基礎化学 ー 分子の目線でヒトをみる」
 ⇒「意外に身近な反物質の世界 ー 雷とPET検査」 ⇒「高校化学教科書の今昔半世紀」  
 ⇒「切手の元素周期表」  


高 分 子 化 学 の 巨 星 井 本 稔 先 生 の こ と 

 私が専門課程に進んだ昭和38年頃は、有機化学の分野では有機電子論が一世を風靡しており、同級生たちも皆、井本稔著「有機電子論」を読んで勉強していた。五十数年の歳月が流れており、井本先生の絶筆にも近い書き込みのある生化学書が縁あって私の手元にある。井本先生は平成11年1月に91歳でお亡くなりになったが、ご逝去の直前まで生化学の専門書を熟読する日々を送っておられた。赤線だらけで所狭しと書き込みのあるページが、最期まで学究心を抱き続けられた先生の姿を如実に示しており、深い感銘を受けた。井本先生には遠く遠く及ばないとしても、自身もそれなりの努力を続ける生き方をしたいと自らに言い聞かせるとともに、多くの方々にも私の感慨を伝えたいとの思いをもって「卒寿を過ぎて学び続けた偉大な先達」と題した一文を「現代化学」誌に寄稿した。

 高分子化学の巨星、井本稔博士は、新進の学者時代より絶えず貪欲に新しい学問を吸収し、多くの著作として世に出し続けてこられた。その真摯な学究の姿勢を如実に示す晩年の書き込みがある。卒寿を超えてなお、学術書のページを赤線だらけにして読み進められたその姿は、私たちに無限の希望と勇気を与える。

 先生が1999年1月に91歳でお亡くなりになってはや20年になる。学生時代の私たちに井本先生の名前は深く刻込まれている。筆者が小学校低学年であった1951年にすでに「有機高分子化合物の研究」で日本化学会賞を受賞、生涯でビニル化合物の重合など800編以上の論文を発表されている。しかし、専門課程に進学したばかりの学生は、先端の重合化学など知るはずもない。共立全書の『有機電子論Ⅰ・Ⅱ』や、東京化学同人の『有機電子論解説上・下』の著者として井本先生を知ることになる。これらが専門課程に進学して最初に購入した参考書だったという方も多いのではなかろうか。

 先生は専門分野での研究に邁進される一方で、化学の幅広い分野での明快な解説書を数多く執筆、日本の化学界に類いまれな貢献をされた方である。猛烈な読書家で、吸収された知識は自身一人のものとせず、世に還元してこられた。

 生命現象にかかわる化学にも昔から興味を抱かれていて、生命科学分野の新展開の理解に努められていた。高弟のお一人、大津隆行氏(大阪市立大学名誉教授)は追悼文に「亡くなられた後、先生の机の上には、『遺伝子』(上、下)と『分子細胞生物学』(いずれも東京化学同人刊)が置かれていた。読まれたところは赤鉛筆でなぞられていた。90才を過ぎて、なお新しい学問の吸収に努められていた。私は先生という偉大な目標を失った。」と記されている。生化学の専門書を何冊も精力的に読んでおられたことを示す、東京化学同人の元社長植木 厚氏への先生の手紙(1998年11月10日付)の一部を次に紹介する。

・・・『細胞機能と代謝マップ』の第Ⅱ巻を読みはじめて、そのご報告を申し上げようと思ったのでした。(御社の『免疫』をすませてからでしたので、少しおくれました。)この横長の本は、私には高級すぎるかもしれません。しかし、『遺伝子』と『分子細胞生物学』の2冊を、ともかく赤線だらけにした実跡は・・・

 植木氏から送られたその「横長の本」には、赤線とともに所狭しと赤ペン、鉛筆書きの書き込みがある。10月23日に届いて11月2日から読み始められたこの『細胞機能と代謝マップⅡ.細胞の動的機能』であるが、先ずは「序」のなかの「・・・細胞の化学構築の理解のみでなく、”時間”と”空間”の概念の導入もまた必要である。」の部分に赤線が引かれている。悲しいことに「赤線だらけ」は149ページで終わっていて下図がその最後の書き込みである。12月23日までの50余日ほとんど休みなく読み進められた井本先生が、天国に旅立たれたのは年が明けた翌月の15日である。いわば絶筆にも近いその書き込みは、「こんなこと考へられますか! フィードバックで ”それ作れ” と命令されて、一定の場所の DNA → m-RNA + t-RNA(リボソーム中で) → プロタンパク → (千切れて)- ペプチドホルモンができる。ソレハ何分(min)デ消失スルトイフ―!!(12月23日)」とある。リボソームで合成された前駆体のタンパク質から切出されたペプチドホルモンがわずか分単位の寿命で分解されてしまうことへの素直な感動である。これは、序に赤線された”時間”の概念にかかわっているが、もう1方の”空間”の概念に関するものとして、「(リボソームでのタンパク質合成で)動くのはm-RNAかリボソームか?」なる鋭い書き込みもあった。

 平板ではない深い洞察のもとに、細胞内の働きの理解を目指されていた姿勢の一端が如実にうかがわれる。91歳にしてなお衰えぬ学問への真摯な情熱の姿を、筆者と同世代のみならず広く若い方々にもお届けしたいと筆をとった。

「現代化学」2019年 3月号(東京化学同人)

 井本博士が注目・重視された”時間”と”空間”の概念の一方の”時間”に関わる絶筆的な書き込みを紹介したのが上記の「現代化学」への寄稿である。

 下の図は、もう一方の”空間”の概念に関わる書き込みのなされたページであって、(11月6日)と記されているので、読み始められて5日目である。

 ページの右側の図の上に「それはよいとして、長いタンパクを作るのに動くのはm-RNAかリボソームか」の鉛筆書きに加えて赤ペンで「?」が記されている。この重要な書き込みについての「化学と工業」誌(Vol.75-3, pp220-221)の<編集委員長の招待席>欄に掲載された2ページの寄稿「井本稔博士 卒寿の問い」の内容を以下に紹介する。

< 高分子化学の泰斗 ― 偉大な「勉強家」 >
 井本稔博士(1908.7-1999.1)は、ご自身の専門である重合化学の多数の学術論文とは別に、幅広い分野における総説・解説や数多くの優れた参考書、教科書の著者としての我が国の化学界への貢献は計り知れない。広範な領域の最先端の化学を吸収し、得られた知識は精力的な執筆活動によって世に届けられた。卓越した偉大な学者に対しては陳腐すぎる言葉ながら「勉強家」の三文字がふさわしい旺盛な知識欲、学究心の持ち主であった。

< 赤線と書き込みだらけの生化学書 >
 90歳の井本博士が生化学の最新の専門書「細胞機能と代謝マップⅡ. 細胞の動的機能」(東京化学同人)を読み始められたのは、1998年11月2日である。冒頭の序文の中の体内の細胞同士の関わりについての記述の中で「…細胞の化学構築の理解のみでなく、“時間”と“空間”の概念の導入もまた必要である。」の部分に赤線が引かれている。わずか50 日間で、博士はこの高度な生化学書の6割以上にあたる150ページを鉛筆と赤ペンの書き込みだらけにされた。

< 動くのはmRNAか リボソームか? >
 その21ページにも各所に赤線があるが、右側の「図3・2シグナル仮説」の図の上の書き込みが注目に値する。鉛筆書きで「それはよいとして、長いタンパクを作るのに動くのはm-RNAかリボソームか?」と記されている。
 この図は、リボソームでmRNAの情報を翻訳して合成されつつあるペプチド鎖が小胞体の内部に送り込まれてタンパク質が完成する様子を示している。「だるま形」のリボソームが紐状のmRNAに沿って移動しつつ翻訳が進行し、最終的には完成した分泌タンパク質が小胞体内に残るように読み取れそうである。この図は、日食や月食の新聞報道の写真に類似して、時間経過と空間的な位置関係が融合した形で1枚の図に収められている。しかし、実際には「動くのはリボソーム」ではなく、リボソーム・mRNA複合体が形成された後は、リボソームは小胞体膜に結合し「動くのはmRNA」と考えられる。生体膜にはある程度の流動性があってリボソームは適度の自由度を有するとしても、翻訳の進行に対応できる高速の移動は無理であろう。

< 「空間」の概念の重要性 >
 通常の溶液中の低分子どうしの反応ではどちらの分子が動くかは問題とならないし、固体触媒上の反応の場合は固定相である触媒表面に対する反応物の相対運動である。しかし、生体内の反応では、生体膜などで自由度が制限された細胞空間で生体高分子が関与するケースが多い。「“空間”の概念の導入」にアンダーラインされた井本博士による「動くのはm-RNAかリボソームか?」は、正鵠を射た質問であると言えよう。空間の概念を念頭に、平板な表面的な理解ではなく本質的な把握を目指して読間れていたことが如実にうかがえる。
 ペプチドホルモンの前駆体となるタンパク質などでは、上述のように小胞体表面に固定されたリボソームで合成が進行する例である。しかし、生合成の場が小胞体ではなく、流動性の高い細胞内の空間(細胞質基質:サイトゾル)であるタンパク質も多い。その場合は、自由度も高く、動くのがリボソームとmRNAのどちらか一方だけとはならない。教科書や参考書の類のタンパク質合成の説明図では、リボソームが動いているものもmRNAが動いているものもある。またコンピューターシミュレーションの動画では大抵mRNAが動いている。これらは、一方だけが動いて他方が固定されていることを意味するものではなく、両者の相対的な運動を示していると理解するべきであろう。

< 「時間」の概念に関わる絶筆的な書き込み >
 もう一方の重要概念の“時間”に関しては、次のような興味深い書き込みがある。(本サイトでは、先に「現代化学」誌への寄稿「卒寿を過ぎて学び続けた偉大な先達」で紹介)
 ホルモンの章の最後にある「ホルモンの合成機構」の表について、博士はペプチドホルモンの血漿中での半減期が分単位であることに驚かれている。「こんなこと考へられますか! フィードバックで“それ作れ”と命令されて、一定の場所の DNA → m-RNA + t-RNA(リボソーム中で) → プロタンパク → (千切れて)- ペプチドホルモンができる。ソレハ何分(min)デ消失スルトイフ―!! (12月23日)」。
 リボソームで合成された前駆体のタンパク質から切出されたペプチドホルモンが、わずか分単位の寿命で分解されてしまうことに対する感慨であり、具体性をもった時間の意識のもとに生体分子の消長を生き生きと捉える記述である。
 読み始めて52 日目の上記の鉛筆書きが最後の書き込みであって、その23日後の1999年1月15日、井本稔博士は90年の生涯を終えられた。

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  以上、日本化学会の会誌「化学と工業」(Vol.75-3, p220)に寄稿した2ページの記事を少し端折って紹介した。この記事の掲載誌の発行は、井本博士が日本化学会の学会賞を受賞されてより70年後の2022年3月である。

補 記 (裏 話)・・・資料入手の経緯
 記事で紹介した井本博士の書込みのある「細胞機能と代謝マップⅡ. 細胞の動的機能」(東京化学同人)は、筆者 川井の手許にある。
 この貴重な遺品が、高分子化学・重合化学とは縁が薄くアカデミックな接点がほとんどない筆者のもとに収まっている経緯は以下の如しである
 ご逝去から十余年後の2009年6月、井本先生の娘婿の中島路可先生(鳥取大学名誉教授)の命により枚方市の井本邸の蔵書の整理に加わった。(中島先生は筆者が京都大学工学部合成化学科の学生時代の恩師であり、一時は共に枚方市民であった。) 蔵書の整理は、井本先生の高弟 大津隆行先生(大阪市立大学名誉教授)および住所が枚方市に近い井本研出身の2名に筆者も加わって5人で行った。整理もほぼ一段落、もし欲しい本があるようなら・・・とのことで筆者の目に入ったのが、日本生化学会編「細胞機能と代謝マップ」全2巻であった。第1巻が「細胞の代謝・物質の動態」、第2巻が「細胞の動態機能」である。筆者の書棚にあったのは同じ東京化学同人社からの1980年版の「代謝マップ − 経路と調節−」であって、これら2冊はその新規改訂版に相当する。折しも、分子の視点で人間を見るという生命化学の書物を執筆中であって、この新しい代謝マップの本は喉から手が出るほど欲しくなった。めでたく皆さまの同意のもとに持ち帰った2冊であるが、代謝マップが中心の目的の第1巻の付録でついてきたような気分の第2巻の解説書が井本先生の「赤ペンと鉛筆書き」だらけの貴重な「お宝」本であることを知った次第である。

 写真の左上はご逝去前の井本先生が「勉強」されていた机、左下は蔵書整理に携わった面々(井本博士の肖像写真のすぐ脇が大津先生、中央は中島先生、左端が筆者)

<裏話のうらばなし>
 井本先生の蔵書といえば、お家の廊下にまで溢れていた書棚から「サザエさん」の本を何冊かお借りしたことがある。筆者の長女が産まれた産婦人科医院は井本邸のすぐ近くにあった。なかなか産まれなくて暇つぶしに読みたいという入院中の家内の希望によった。漫画なんか読んでいるようでは未だ未だ産まれない!という中島先生の奥様の言葉通りに一旦は退院となった。
 なお、それから40年近く経ってからの蔵書整理では、件の「お宝」を含め種々の学術書とともに、「フジ三太郎名場面」、山本周五郎の文庫本、それぞれ十数冊などなども頂戴した。

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